東方十全歌 〜Lost World beyond the Border 第三話
翌日。
妖夢は現場を見たりメイドたちに聞き込みをしたりしていたが、その成果は芳しくなかった。事件が事件だけに流言が飛び交っており、渡される情報はどれもこれも何の根拠もない噂話だったのだ。一応全てメモに取り、それらしい情報のウラを取るのだが、どうにも確定的なものはなかった。
(そういえば、剣振ってないな……)
自分の部屋でメモとにらめっこをしていた妖夢は、ふとそんなことを思い出した。普段は庭木の剪定が修行を兼ねているのだが、それ以外に素振りなどもしている。ここ紅魔館で庭の木を弄るわけにはいかないが、素振りくらいはできるだろう。探偵を任されたとはいえ、一日でも修行を怠ると何か気持ち悪かった。
息抜きがてら剣を振ろう。妖夢は楼観剣を持って外に出た。真剣を振り回すのは相当に危ないが、警備部隊はそんなにちょくちょく巡回してくるわけではない。人がいなければ危険はないだろう。
外は今日もいい天気だった。レミリアが不貞腐れることだろう。ベッドの上でぶーたれているレミリアを想像すると、少しおかしかった。
一刀楼観剣を振る。びゅん、と慣れ親しんだ空気の鳴き声が耳に聞こえてきた。刀を振り上げ、目の前の見えない敵を切り伏せる。慣れた動作で妖夢はそれを繰り返した。
そうしながらも、妖夢の思考は動く。事件のこと、空間のこと。事件の真相はどうなっているのか。果たして自分に解き明かすことはできるのか。空間とは、自分に斬ることはできないのだろうか。自分は一生未熟なままなのだろうか。
どれも、答えの出ない迷宮のような道だった。
(ああ、いけない……)
しばらく素振りを続けていた妖夢だったが、ふと肩の力を抜いて刀を降ろした。
あまりにも煩雑すぎる。迷わず一心不乱に剣を振るつもりが、気がつけばあれこれと考えて全く実になっていなかった。こんなことならやらないほうがましである。
妖夢はゆるゆると首を振った。考えることが多すぎて身が入らないのだ。やってみて分かったが、探偵というのは物事を多角的に見なければならないのである。一つの側面ばかり見ていては事件の全貌は見えてこないのだ。事件に関係する要素をどのようにつなげていくかが探偵の仕事である。だから、妖夢のように短絡的なタイプには向かないのだ。今までの妖夢の解決法といえば、「斬る」の一択だった。斬らずにあらゆる角度から見るとなると、相応に頭を使わなければならない。妖夢はそれが苦手だった。
しかし考えなければならない立場である以上、何とか頭を捻らなければならない。そのために頭の中がごちゃごちゃになり、結果として素振りすらままならなくなっているのだった。
思うように行動できないのは辛かった。妖夢はもう一度ため息をつく。汗はじわりとも出ておらず、己の未熟さを証明していた。
「妖夢」
妖夢がちょっとした自己嫌悪に陥っていると、後ろから誰かが声をかけてきた。
「あ、美鈴さん」
振り返ると、門番の美鈴が笑顔で立っていた。
お仕置きは大丈夫だったのだろうか。一瞬、そんなことを考える。
「あっと、邪魔だった?」
「あ、いえ……」
「そう? まあ、集中できてなかったみたいだしね」
「う……」
美鈴は笑顔を作るが、その内容は妖夢の心理をずばり言い当てていた。端から見ても力が入っていなかったのが分かっていたか。妖夢は雑念を払えなかった自分を恥じた。
「ところでどう? 探偵の方は」
少し間を置いてから、美鈴は妖夢に尋ねた。今、紅魔館では探偵がやってきたことにより、その話題でもちきりだ。妖夢の方も、頼みもしないのに様々な噂や憶測をいただくことになっていた。
「そうですね。あんまり進んでません」
だが、やはりその中に有力な手がかりはないのだった。
「そっか。まあ、まだ始めて二日目だから焦ることもないわよね」
「ええ。でもやっぱり、少しは進みたいです」
昨日の直接的な目撃情報と現場検証から、ほとんど進んでいないのが現状だった。午前中を使って情報収集したものの、結果は散々だった。
「見た子っていうのがその三人だけだもんねぇ」
「ええ」
「そういえば、その亡霊ってどんなのだったっけ?」
「……え、知らないんですか?」
「聞いたけど、忘れちゃったのよ。今色々言われてるからさ」
美鈴は苦笑した。妖夢はそれを聞いてうなずく。
美鈴が亡霊の情報を正確に把握していないのも無理はない。半月の間に噂が飛び交いまくったせいで、亡霊の情報には豪快な尾ひれ背びれがついているのだ。妖夢が聞き込みをした中でも、実際の亡霊像からは全くかけ離れた想像をしているメイドもおり、それを大真面目で情報提供してくれたのだ。しかもメイドは三桁は確実にいるので、同じようなことを言うメイドは少なくなかった。満月になると変身するだの一度見つかると凄いスピードで追いかけてくるだの、根も葉もない噂に辟易したものである。
だから、発信源から門番のところまで耳に入るまでには、伝言ゲームのように情報が変質していったのだろう。全く想像に難くない。
「長いブロンドの髪を持ったメイドさんです。それと歌を歌ってたということ。目撃情報としては、それだけです」
妖夢は簡単に説明した。今のところ、本当に正確な情報を握っているのは妖夢とあの三人くらいのものだろう。
「へえ、何だかメイド長みたいな人ね」
妖夢の説明を聞いて、美鈴が感想を漏らした。
「は? メイド長?」
メイド長。メイド長といえば咲夜である。しかし咲夜の髪は長くもないし金髪でもない。そして歌を歌うということもあまり考えられず、そもそも亡霊ではなく生きた人間である。
「あ、咲夜さんじゃないわよ。咲夜さんじゃなくて、前のメイド長ね」
妖夢が首を傾げていると、それを察して美鈴がつけ加えた。
「前のメイド長、ですか?」
「うん。咲夜さんがメイド長になる前ね。金髪のロングヘアーで、歌を歌うのが好きだったわ。変な歌作ってばっかりな上に、音痴だったけどね」
美鈴は笑った。
なるほど、亡霊の情報と一致している。
「なるほど。でもその人ではないでしょう。亡霊じゃないんでしょ?」
現れる亡霊が本当に亡霊かどうかは確定していないが、今は便宜的に亡霊だ。亡霊と聞いている美鈴が生きている人物を亡霊と言うはずもないだろう。
「さあ、どうかしらねえ。案外、亡霊かもしれないわよ?」
だが、美鈴はその言葉にはうなずかなかった。
「案外って……どういうことです?」
「いないのよ、前のメイド長。失踪しちゃったの」
「え……失踪?」
そして、意外な単語が紡ぎ出された。
「どうしてです?」
「分からないわ。誰にも何にも言わずにいなくなったんだもの」
あのときは皆随分混乱したわ、と美鈴は遠い目をする。
紅魔館メイドは勤めるのも辞めるのも全くの自由である。だから先代メイド長がメイドを辞めたとしても問題はない。しかし、解雇ではなく失踪だ。辞める辞めないの話を抜きにして、彼女はいなくなってしまったのである。
詳しい話を聞こうとするが、美鈴は本当に先代メイド長が失踪した理由もどこに行ったかも知らなかった。
「噂は山ほど出たけどね」
失踪が判明した翌日、レミリアによって咲夜がメイド長に任命された。そのため、咲夜が先代メイド長を殺したのではないかというものを中心に、様々な推測や噂が飛び交ったという。中には咲夜を討とうとした者までおり、紅魔館の機能は一時期完全にストップしたらしかった。
「そんな……」
「噂よ、噂」
「本人は……咲夜、さんは何て言ってたんですか?」
「知らないって。どうして消えたのか、どこに消えたのかも分からないってさ」
「…………」
先代メイド長失踪に関与していようといまいと、咲夜はそう答えるしかないだろう。殺していたとしたらなおさらだ。
「咲夜さんに、殺すような動機はあったんでしょうか」
しかし、妖夢はそう思わなかった。先代メイド長が咲夜に殺されたとしたら、咲夜がメイド長の座欲しさに殺したとする動機がもっとも有力だろう。が、咲夜はメイド長の座に満足はしているだろうが、そのためにわざわざ血生臭いことをするような人間とは思えない。そもそも、どんな立場にいようと、紅魔館の大部分の仕事をするのは結局咲夜なのだから。
「ないんじゃないかしらね。あの二人は大体いつも一緒にいたし、咲夜さんがあの人を嫌ってる感じはなかったわ」
美鈴の返答は、妖夢の印象を補強するものだった。妖夢は相槌を打つようにうなずく。妖夢よりも二人に近い立場にいた美鈴の証言ならば信用できる。
「ま、確かな証拠がない以上こんなのは邪推でしかないわ」
「ええ、そうですね」
美鈴が肩をすくめる。妖夢は頭を切り替えるために深呼吸をした。
何にせよ、亡霊の特徴は先代メイド長と一致している。そうと決まったわけではないが、現れる亡霊が先代メイド長である可能性は大いにあった。
(……あれ、でもあの三人はメイド長なんて言ってなかったような)
そこで、妖夢はふと思い出す。三人のメイドはいずれも先代メイド長のことは口にしていなかった。話を聞いただけの美鈴がすぐに思いつくくらいなのに、実際に亡霊を見た三人が紅魔館総括兼掃除部隊隊長であるメイド長を思い出さなかったということがあるだろうか。
或いは、先代メイド長ではない特徴が何かあったのだろうか。
「十年もメイドをやってて、メイド長に気がつかないわけが……」
「十年? そりゃ分からないでしょ」
妖夢が呟くと、横から美鈴が口を出してきた。
「は?」
「だって、あの人が失踪したのって確か……十六年くらい前だったはずよ」
「十六年前?」
随分と前だ。しかし咲夜の仕事はどう表現しても完璧である。話に聞いた程度だから正確なことは分からないが、二桁を下らない勤続年数のメイドたちにそう言わしめるのだから、相当のものなのだろう。そこまで極めるには、やはりそれ相応の時間がかかるに違いない。
(けど……あの人何歳なんだろう)
咲夜は若く見える。そして妖怪ではなく人間だ。十数年で身体が劇的に変化する生き物だ。十六年以上も前からメイド長をやっているとなると、一体何歳の頃から紅魔館で働いているのかと疑問に思える。
「咲夜さんはいつ頃から紅魔館にいたんですか……?」
「二十年くらい前に来たわよ。お嬢様が連れてきて、しばらくメイドやって、メイド長が失踪して、それで咲夜さんが新しくメイド長になったの」
「二十年前って……人間じゃ子供だったんじゃ」
「んー。そういえばあの時点でもう十代中頃くらいだったわね」
「え……じゃあ今いくつなんですか?」
「さあ」
妖夢が尋ねた結果、何だか聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がした。二十年前既に十代中頃だったということは、今は――。
「あの人時間操れるから、その部分が関係してるのかも」
「……あ、それもありますよね」
そうであった。年齢と時間はほぼ一体だ。咲夜なら肉体年齢を操ることもできるかもしれなかった。
何にせよ、女性の年齢を詮索するのはよくないだろう。妖夢は今一度深呼吸をして頭を切り替えることにした。
「それにしても、二十年前に来てからということは、数年でメイド長になったということですか」
「相当叩き込まれてたからねえ。普通なら三、四十年はかかりそうな仕事を詰め込んでたのよ」
紅魔館メイドは今も昔も量だけいてさして質は上がっていないらしい。長い期間訓練を積んでメイドとしての質も戦闘力も高めているメイドもいるが、それはごく一部である。そのため、昔もメイド長が大抵の仕事をこなしていたという。だから、十年勤め上げた程度では、新米とはいわなくとも年季があるとはいえないのだろう。
「今も昔も変わってないんですか……」
「まあね。皆物覚え悪いわよ。私大体毎日警備部隊の子達の訓練してるけど、安心できるほどの実力がつくのは遠いわね」
美鈴は軽く笑う。門番としても、警備部隊隊長としても、美鈴には苦労があるようだった。
「……あれ? でもちょっと待ってください」
美鈴の愚痴に近い話を笑って聞いていたが、妖夢はそこではたと思い立った。
「何?」
「先代のメイド長が咲夜さんにメイド長としての仕事を教えていたんですよね?」
「うん、そうよ」
「それは……どうしてですか?」
今のメイド長は一人でほとんどの仕事を手がけており、それを立派に遂行している。そして昔も、メイド長が一人でほとんどの仕事を手がけ、そして遂行していたのだ。
つまり、何も咲夜を教育しなくても仕事はできていたのである。
なぜ、咲夜を教育しなければならなかったのだろうか。
「咲夜さんもその辺のいちメイドとして扱ってもよかったんじゃ……」
「……そういえばそうね。前のメイド長も咲夜さんと同じくらいに仕事できたんだし」
美鈴は空を見上げて考えた。
「まあ、咲夜さんはお嬢様が気に入って連れてきたんだし、それなりに仕事のできるメイドにしたかったんじゃない?」
「そうかもしれませんが、それなら何も短期間で完璧にこなせるようにしなくてもいいと思うんです」
他の妖精メイドたちのように、じっくり時間をかけて成長させてもいいはずだ。咲夜の能力は予め分かっていたはずである。それならば、何も急いで仕事のできるメイドに仕立て上げる必要はなかったのではないだろうか。
「そりゃ、やっぱり咲夜さんも人間だもの。時間は限られていると考えられたんじゃない?」
「いえ、咲夜さんが年齢を引き伸ばせるのならその必要はないですし、問題はそこじゃないんですよ」
「ん? じゃあ何?」
「先代メイド長は妖怪だったんでしょう?」
「うん。何の妖怪かは知らないけど」
「それなら……」
妖夢は一旦言葉を切って息を吸い込んだ。
「それなら、咲夜さんが寿命で死んでも何も問題はないはずです。それまで通り、先代メイド長が仕事をすればいいだけですから」
レミリアが使えるメイドを欲しがった可能性はある。しかし使えるメイドならば先代メイド長が既にいる。咲夜の水準をメイド長と同じくらいにまで引き上げることはないはずだ。すぐに死ぬ人間ならば、水準を上げたところでそれを発揮できる期間は知れている。
時間があるからだろうか。それならば急いで教育する必要はない。時間がないなら、メイド長の仕事は先代に任せればいいだけである。
咲夜の扱いは、何か矛盾しているように思えた。
「そうねえ。そう言われてみれば変かも……」
頬に手を当て、美鈴は考え込んだ。
「考えられるのは……」
咲夜の能力を考慮すれば、やはり時間はあると考えた方がいい。それならば、短期間で全ての仕事を教え込まなければならない理由があったはずだ。
「先代メイド長のほうに時間がなかったからじゃないでしょうか」
「メイド長のほうに?」
美鈴は首を傾げる。
「はい。例えば、寿命が近づいていたとか……」
「ないわ。確かに何の妖怪かは知らないけど、そう簡単にくたばるような人じゃないもの」
「じゃあもう一つ。……誰かに命を狙われていた」
メイド同士でいさかいが起こることは珍しくない。それどころか、時には血を見るほどの抗争になることさえあるのだ。メイド長ですら、その対象に入るのである。
何者かに命を狙われ、先代メイド長は気を揉んでいた。と、そんな折にレミリアが自分で気に入った人材を連れてきた。それならば、お気に入りのメイドをそばに置いたほうがいい。また咲夜をメイド長にしておけば、自分が殺されたとしてもメイドの業務が滞ることもない。彼女はそう考え、命があるうちに自分の全てを咲夜に継承しようとしたのかもしれなかった。
「……ふむん、なるほどね」
「まあ、推測ですけど」
「いやいや、十分説得力あるわよ。咲夜さんと違ってね、あの人は戦闘能力は普通の人間程度だったのよ。全然強くなかったの」
逃げるのは得意だったけどね、と美鈴は笑った。
となると、誰がメイド長を殺したかである。戦闘能力が高くないのなら、一般メイドでも十分に通用するだろう。それはメイド長に恨みを持つ者に限られるが、流石に特定するのは大変そうだった。
「うーん。でもメイド長の能力を考えると、相当の手練よねえ」
美鈴が腕組みをしてうなった。
「能力? そういえば、何なんです?」
「空間操作よ。空間を操ることができたの、あの人」
「空間……」
思いがけず自分の本来の目的と同じ単語が出てきて、妖夢は驚いた。
そういえば、咲夜がこの広い紅魔館の中でほとんどの仕事ができるのは、時間を操る能力をフルに活用しているからである。先代メイド長にもそれに匹敵するような特殊能力がなければ、同じことをできはしないだろう。戦闘力が低いにもかかわらず先代メイド長がその座にいられたのは、そういう理由からだった。
先代メイド長は自身の能力を用いて、あのフランドールの攻撃をも巧みにかわしていたそうだ。逃げるのが得意とは、そういうことらしい。
「紅魔館は、私が来たときにはもうこんな風に中が広くってね。それを、メイド長が制御してたの」
先代メイド長は美鈴よりも昔からメイドをしていた。それどころか、本人の談によれば紅魔館最初のメイドらしい。まだ紅魔館が幻想郷の外にあった時代からレミリアに仕えていたとのことだった。
「……それでメイド長の座を譲ろうとしていたのなら、相当懐の広い人ですね」
「まあね。でもあの人は自分よりもレミリアお嬢様を第一に考える人だったから」
「清く正しく美しく 全てはレミリアお嬢様のために 我ら誇り高き紅魔館メイド」。この紅魔館メイド心得は、先代メイド長が定めたものらしかった。
全てはレミリアのために。だから連れてこられたのが人間であっても、レミリアが気に入っているのならそれに従うのだ。そして、彼女に粗相のないように最高の人材に育て上げようとしたのかもしれなかった。それも、なるべく早く。
「あ……ということは、今の紅魔館内の空間は」
「うん、咲夜さんが制御してる」
メイド長としての教育の一環に、空間制御もあった。時間を操れるということは空間も操れる。先代メイド長は自分に似た能力に目をつけ、最終的に咲夜に紅魔館内の空間を任せられるまで訓練したらしい。
ますます先代メイド長の暗殺説が強まったような気がした。
「なるほど、そう考えるとそのセンは濃厚ねえ」
美鈴は納得したようにうなずいた。
先代メイド長がどんな人物だったか、美鈴は語る。
時間と空間が同質のものとはいっても、先代メイド長は時間を操ることは苦手だったらしい。空間制御のみを使い、広い紅魔館で仕事をしていた。その仕事ぶりはレミリアに忠誠を誓っていただけあって相当に熱心だった。戦闘能力こそ高くはなかったが、メイド長としての実力は確かなものだったのである。
仕事熱心で、レミリアも紅魔館も好きだった。
だからなおさら、自分から失踪することなど考えられなかった。
「どこかで殺されて、亡霊になって紅魔館に現れたのかもね……」
美鈴の表情が沈む。そうだとしたら悲しすぎるだろう。
何者かの手によって、先代メイド長は存在ごと闇に葬られた。そして亡霊となって紅魔館に現れる。しかし力が強くなかったのなら、人型を保って出現することは難しいだろう。かといって人魂の状態では話すらできない。まず自分の存在を知らせるために歌を歌っていたと考えることはできるだろう。目撃情報が少ないのは、人型になる準備期間が長いから。
そう考えれば一応辻褄は合う。また失踪事件と今回の亡霊事件は繋がっていることになる。どちらかを深く調べれば、どこかに二つの事件を繋ぐ鍵があるかもしれなかった。
(どっちからやるかな……)
失踪事件はだいぶ前のことである。手がかりは風化してしまっているだろう。けれど亡霊事件の方は手詰まりだ。ここは別の角度から考えてみた方がいいと思われた。
そう、探偵に必要なのは多角的な視点だ。妖夢はうなずく。今はとにかく行動するべきだった。
「美鈴さん、ありがとうございます。凄く参考になりました」
とりあえず、この話はここで切り上げておこう。妖夢はそう考え、美鈴に深く礼をした。もし失踪事件が亡霊事件と関係があるのなら、とても有力な情報だ。そうでなくとも妖夢は既に行き詰まっていたのだ。行動するきっかけを与えてくれた美鈴には感謝すべきである。
「あはは、どういたしまして。それじゃ私も門のところに戻ろうかな」
頑張ってね、と背中を軽く叩いて美鈴は妖夢を見送った。
と、妖夢が館の角を曲がろうとしたところで、声をかける。
「あ、そうだ。前のメイド長のことなら、咲夜さんに聞いたほうがいいわよ」
「ええ、そうですね。そうします」
現在先代メイド長を最もよく知る者は、咲夜かレミリアくらいであろう。どちらかといえば咲夜の方が話しやすいので、妖夢は咲夜に話を聞くことにした。もしかしたら、咲夜も気づかなかった失踪事件の手がかりもあるかもしれない。
妖夢は館の中に戻っていった。素振りは、もう少し事件を整理してからにしよう。
昼でも薄暗い廊下を歩き、妖夢はメイド長室を目指していた。仕事中なので咲夜がメイド長室にいるわけはないのだが、だからといって館内を闇雲に探し回っても見つかることはほとんどない。だから、メイド長室の前には呼び鈴が設置されている。それを鳴らせば、長くとも数分でメイド長が現れるという仕組みであった。一体どうやって咲夜がその音を感知しているのかは分からないのだが。
(そういえば……)
とんとんと階段を上る。その途中、妖夢ははたと足を止めた。
(咲夜も亡霊が先代メイド長って考えてるかもしれない……)
美鈴が特徴を聞いただけでそこに思い当たったのだ。先代メイド長に最も近く、またいの一番に事件の報告を受けているであろう咲夜なら、そこから想像することは難しくはない。
咲夜と先代メイド長の仲は悪くないと聞いた。相当にしごかれていただろうが、それは先代メイド長の熱心さゆえのものであって、決して悪意があってのことではない。咲夜は別段先代メイド長を嫌っているわけではないはずだ。
ならば、なぜ自分で調べないのだろう。妖夢の視点では二つの事件を結びつけることはできない。しかし、内部の人間で妖夢よりもずっと当時のことに詳しいはずの咲夜なら、妖夢が分からない部分の答えを持っているかもしれないのだ。もし二つの事件が繋がっているのなら、咲夜自身が動いた方が早いはずだ。
(……でもまあ、所詮憶測だしね)
妖夢は止めた足を再度動かし始めた。
亡霊が先代メイド長であるという確かな証拠はない。背格好が似ているということ、よく歌を歌っていたということ、それだけだ。確かにその特徴から先代メイド長を連想することはできるが、かといってやはりそうだと断定はできない。あくまで可能性があるだけだ。誰も確定することはできない。
メイド長室に到着した。妖夢は壁にかけられている呼び鈴に手を伸ばす。
(それに、咲夜もあの時)
――――
「……え?」
妖夢の動きが止まった。
『大したことじゃないわ。いなくなったはずの人物が現れる、というだけよ』。
呼び鈴に手を伸ばした状態で固まり、妖夢は咲夜の言葉を思い出す。
「いなくなったはずの人物が現れる」。
「……どうして?」
なぜ、そう言えるのか。なぜ、そうだと分かるのか。
妖夢は三人から既に聞いていた。あの三人が咲夜にした報告は、「亡霊が出た」である。一言も、実在の人物が出たとは言っていないのだ。
亡霊と言われたのに、なぜいなくなった人物に繋がるのだろうか。
亡霊なら確かに過去いなくなった人物だとも言えるが、しかし咲夜は最初にいなくなった人物と言い、その後に亡霊事件だと述べた。亡霊だと思っているのなら最初から亡霊と表現するのが自然だ。どうしてわざわざそう言ったのか。
「知ってる……?」
最も高い可能性。それは咲夜が、その亡霊がいなくなった人物、即ち失踪者であると知っているということだ。
そして、それが失踪者であると確信しているということだ。
メイドたちは亡霊と表現したし、今も皆亡霊だと思っている。そんな中で、失踪者だと言うのは不自然だ。
その「亡霊」が誰であるか知っていなければ、そんな表現はできないはずなのである。
もちろん、亡霊の特徴から先代メイド長を連想したためにそう言ったと考えることもできる。だが、事件発生後すぐに妖夢に依頼したならばともかく、それから既に二週間経過しているのだ。全員が全員亡霊と認識しているのに、一人そう考えているということは、単なる思い違いだとは言いがたい。確信がなければそんなことはできないはずである。
咲夜は、亡霊事件について他のメイドよりも詳しい情報を持っているのだ。
おそらく、亡霊の正体も知っている。
そしてもし仮にその亡霊が失踪した先代メイド長だとするならば。
咲夜は失踪事件にも深く関わっているということになる。
もしかしたら、彼女の暗殺にも――。
考えすぎだろうか。飛躍しすぎだろうか。妖夢はそうは思わない。咲夜の言った言葉は、軽んじていいものではない気がしていた。
咲夜は知っているのか。それとも、本当に何気なく言っただけなのか。
ごくり、と唾を飲み込む。手は呼び鈴に触れる寸前で止まっていた。
これを鳴らすか。鳴らして、咲夜を問い詰めるか。
所詮はこれも憶測でしかない。場合によっては酷い邪推になりうる。
依頼されたとはいえ、妖夢は居候の身だ。想像だけで咲夜の尊厳を汚すような真似はできない。たとえ当たっていたとしても、証拠がない。第一、依頼人を問い詰めてどうするというのか。咲夜から妖夢に事件解決を頼んだのだ。その咲夜が元凶だというのは、間違っているようにも思える。
(ああ、混乱してきた……)
思考がぐるぐると回る。呼び鈴を鳴らすべきか、鳴らさざるべきか。
「………………」
酷く長い時間考えていたような気がした。
悩んだ末、妖夢は手を下ろした。
咲夜に尋ねるのは捜査をする上で有利だろう。しかし、こんな状態で聞いても何を口走るか分かったものではない。
だから妖夢は、一旦保留とすることにした。まだ失踪事件については知ったばかりだ。他から情報を仕入れて整理することも大事だろう。いきなり核心と思える場所に特攻する必要もあるまい。
妖夢は深呼吸して、早鐘のように打っていた心臓を落ち着けた。気がつけば、結構な冷や汗もかいていた。
咲夜に聞けない以上は他のメイドに訊くしかない。とりあえず、美鈴から聞いた話を整理して、その後他の人に聞き込みをしてみよう。誰が二十年以上勤めているかは分からないが、それは訊けばいいだけの話だ。
妖夢はもう一度深呼吸をすると、踵を返してメイド長室を後にした。
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