雪夏塚〜セツゲツカ 姫崎綾華編_第三話(その5) その昔、屶瀬島には山の神が住んでおり、周りの海には海の神が住んでいた。山の神は陸を、海の神は海を管理していた。しかし空だけは管理していなかったので、春と夏は海の神が、秋と冬は山の神が管理することにした。そのため、海の神は秋と冬には、海面に出られなくなってしまった。ある時海の神が冬にこっそり海の外に出て島を見ると、美しい娘が目に入った。一目でその娘に魅入られてしまった海の神は、自分の仕事を放り出して娘と会うようになった。 しかし、当然その事は山の神に知られてしまう。山の神は娘を殺した上、海の神を厳しく監視するようになった。 海の神は嘆き悲しみ、攻めて冬に降らせる雪を夏に降らせてほしいと山の神に頼んだ。 無目は雪女で、娘と会う日はいつも雪が降っていたからだ。雪を見て娘のことを思っていたいと泣きながらに頼んだ。山の神は、海の神の誓いの固さを見て、それだけは了承することにした。 以来、屶瀬島には、夏になると雪が降るという。 「へぇ・・・」 「屶岬の立て札に書いてあるよ、行ってみる?」 「・・・遠いぞ」 「いいじゃない。息抜きだもん、少しは歩こ」 屶岬は屶瀬島の南端に突き出た形の岬である。遊歩道が設置されているが、階段の昇降が多いので、歩いて行くしか方法がないのだ。 「まあ、いいか」 だが、槙人はそのまま屶岬の方へと歩き出した。綾華の言う通り、少しは運動した方が良いかもしれない。 車が一台しか通れない細い小路を通った先に、岬へと続く一本道がある。 「気をつけろよ、綾華」 「うん。大丈夫」 雪が降っていない分には、ただ階段を昇り降りするだけだから良いのだが、雪が降っているとそうはいかない。積もった雪で滑ることもあるし、それをどかした雪に足を取られて埋まる事もありうるからだ。急ぐ必要もないので、槙人は綾華に気を遣いながらゆっくり歩いた。 「・・・うへぇ」 屶岬は、槙人が今まで見た土地の中では最も危険な場所だった。 軽く三十メートルは高さがありそうな上に、幅は五メートルもない。まさしく屶の刃を彷彿させる、鋭く切り立った崖なのだ。木で作られた遊歩道は何本もの鉄柱で支えられている。下手に人が落ちたりしないように。柵は網目状に作られていた。 「よく自殺の名所にならなかったよな。ここ」 柵は丈夫な木でできているが、乗り越えられないわけではない。そこから落ちれば好きなだけ死ねそうだった。 「そりゃあならないよ」 不安そうな槙人を見て、綾華は笑う。そして遊歩道の終着点である広場の脇に佇む立て札を指さした。 「ほら、あれがさっき言った立て札」 「ああ」 「あれには続きがあってね」 槙人は雪と潮風でボロボロになった立て札を覗き込んだ。しかし、相当に傷んでいるらしく文字はほとんど読めなかった。 それを知ってか知らずか、綾華が説明を再び始めた。 「例の海の神と雪女が会ったのが、この屶岬なんだって。それで雪女が死んだのも、海の神と山の神が話し合ったのもここなんだってさ。だから、ここで願い事をすると夏雪の日にそれが叶うんだって」 「ほー・・・」 とてもそんな縁起の良さそうな場所には見えないが、地元民の綾華が言っているということは本当なのだろう。 「しかし、よく覚えてんな、お前」 槙人は感心の声をあげた。 地元の人間ならば、そういった類のものは、一度見たらもう見ないような気がしていた。しかし綾華の説明は、細部もきちんとなされていた。 相当読み込まない後、そこまでは覚えきれないのではないだろうか。しかし立て札の状態から考えると随分昔に読んだことになる。 「まあね。何度も読んでいるから・・・」 頬を軽く掻いて、綾華ははにかむ。 槙人は崖下を眺めた。波がぶつかり、飛沫となって砕け散っていく。 (落ちたら本当に死にそうだな) そんなことが一瞬思い浮かぶ。死ぬ気がなくてもそういう考えが出てくるのは何故だろうか。 槙人は顔を上げた。数十メートル先の海には雪は降っておらず、太陽の光を反射して輝いていた。雲は、島よりも一回り大きく浮かんでいる。青空を切り取ったように、厚い雲は雪を降らせる。不自然な自然。この島が嘘でできているのかのような錯覚さえ起こす。 夏雪は、本当に神が降らせたのかもしれない。他に説明がつかないのだから。 「・・・それにしても寒いな。そろそろ帰ろうか」 今日まで我慢していたが、海から風がびゅうびゅう吹きつけているのだ。真夏の南風だ から寒い訳ではないが、雪も一緒に飛んでくるので、顔が当たって痛かった。 「うん、そうだね。行こ」 綾華もマフラーに顔をうずめている。綾華は素早く槙人の腕を取った。 離そうかとも思ったが、寒いのでやめておいた。 二人は来た道を歩き始めた。 去り際何となく槙人は広場を振り返った。 「え・・・・?」 その時、見えた。 見えた、気がした。 雪の中、うずくまって泣きじゃくる少女の姿。 前も、そんな光景を思い出していた気がした。だが、はっきりとは思い出せない。 何かかが抜け落ちている。 一体どうしてそうなったのか。 「お兄ちゃん?」 気がつくと、綾香の顔が視界いっぱいに入っていた。 「どうしたの?ボーッとして」」 「あ、ああ・・・スマン、ちょっと考え事してた」 慌てて綾華から顔を逸らす。 不覚にも少しドキドキしてしまった。 そしてそのせいで、何を考えていたか忘れてしまった。 「・・・行くか」 溜め息をついては気とは歩き出した。何だか胸がモヤモヤする。このままでは勉強に集中できないかもしれなかった。息抜きの筈だったのに。 「・・・お兄ちゃん」 「ん?」 帰り途、綾華が口を開く。 「思い出した?」 腕を抱いたまま、綾華は槙人を見上げた。 「・・・いや」 槙人は首を振った。 「何か思い出しかけたんだけどな・・・。忘れちまったよ」 「そっか・・・」 少し残念そうに、綾華は笑った。 色々考えて頭が混乱していたせいで、槙人は気づかなかった。 どうして綾華が、槙人が何かを思い出しかけたのに気づいていたのかに。 [*前へ][次へ#] |