雪夏塚〜セツゲツカ 姫崎綾華編 第一話 新しい始まり(その3) 「うん。ほら。お義父さんとお母さん、一緒に働いてるでしょ?それが今度、海外に行くことになっちゃたんだよ」 「おまえも行けばいいだろ」 義母が働いていた事は知らなかったが、そんなことで論議する気もなく、槙人はさくっと返した。 「私は学校があるんだよ。留学なんて柄じゃないし・・・。それで・・・おにいちゃんと・・・」 俯いたまま、綾華はむにゃむにゃと語尾を誤魔化した。 槙人は溜め息をついた。 「なるほどな。けど、一人暮らしもそう悪いもんじゃないぞ」 「・・・お兄ちゃんのはボロアパートでしょ?家はこんなに広いんだから寂しさの格が違うよ」 不満を表した目で、むー、と綾華は再度槙人を見上げる。 「・・・なかなか言うじゃねーか。だったら尚更、こんな生意気な小娘がいる家に住む気はねーよ」 わざと憎たらしく笑って、槙人は返した。 「うう。ヒドい・・・。でもね、お兄ちゃん」 一瞬だけ綾華は身を引く。しかし、すぐに不敵な笑みを浮かべてきた。 「何だよ」 「・・・お兄ちゃんの帰る家なんか、もうないんだよ」 「はい?」 上目遣いの綾華の言葉に、槙人は頭から聞き返した。 「お兄ちゃんは帰るなんて言ったけど、帰る家はここ以外にはないの」 「・・・どういう意味だ?」 なんだか不穏な事になっているような気がして、槙人は肩をひそめた。 「つまりね、お兄ちゃんが住んでいるアパートは、さっき私達が解約しちゃったの」 軽く、あくまでも軽く、無邪気ともいえる笑顔で、綾華はさらっと重大発言をした。道端の雑草程度のさりげなさだったが、聞き逃す筈も聞き間違う筈もなく、槙人はその場で硬直した。 「・・・じゃあ。否応なしにここに住めと?」 生気のない声で槙人は問う。 「うん」 対して綾華は、笑顔を崩さずに答える。 「・・・俺の部屋にある家具なんかは?」 「引っ越し業者にも連絡済みだから二、三日でこっちに届くよ」 「・・・待て。学校は?こっちから通えってのか?」 「ううん、私と同じ学校に転校してもらうよ」 手続きはもう済んでいるから、と綾華は楽しそうに微笑む。 その笑みは純粋なものだった。 純粋に、悪魔の笑顔だった。 「ち・・・・」 石像のように突っ立っていた槙人は、ようやくその呪縛から立ち直った。 「ちょっと待てぇー!!」 盛大にドアを開け放ち、なきとは新しく住む家に駆け込んで行った。 順を追って話を整理すると。 まず、両親が二人とも海外に転勤になった。 広い家にも拘わらず家政婦を雇ったりしている訳ではないので、日本に残る綾華は、必然的に一人になってしまう。 そこで、槙人を呼ぶ事にしたのだ。 第一に、槙人の転校手続きを済ませる。これは彩花の意図により極秘裏に進められた。 だが槙人を呼ぶにしても、来るかどうかはともかく、一緒に住もうとはしないのは目に見えていた。 そこで第二に、綾華が危篤で倒れた事にする。 確かに綾華は普通の人よりも体が弱い。しかし、倒れる程病弱な訳ではないのだ。だが 槙人がそんなことを知っている筈もないので、理由としてはそれで充分だった。 そして第三に、槙人が家を出る頃合いを見計らって、アパートの大家に連絡し、部屋を解約する。同時に引っ越し業者に連絡し、荷物を届けさせるようにする。 そうしてすべての退路を断った上で、槙人に真相を話す。 それが綾華の考えた計略だった。 つまり、騙された。 それも二重に。 少し考えれば分かる事だった。何故病院でなく家に呼んだのか。何故病名を言おうとしなかったのか。 だというのに、槙人はそれに気づかなかった。 結果、綾華の思惑に見事にはまってしまったのだ。 寸分の狂いもなく。 己の浅薄さを思い切り見せつけられた気がした。 逃げ道はどこにもない。 叔父たちとは仲違いしてしまっていたため、今更援助は期待できなかった。 詐欺に遭った人って、こんな気持ちだろうか。 そんなことが頭に浮かんだ。 が、余計惨めになるので考えるのはやめた。 「ね、お兄ちゃん」 「・・・何だよ」 リビングのソファーでぐったりしている槙人に、綾華が呼びかける。 「これから、よろしくね」 そして、花が咲くような笑顔を向ける。 その花が食虫植物のような気がして、槙人はもうリアクションする気にもなれなかった。 「・・・好きにしてくれ」 そして槙人は、よりいっそう深くソファーに沈み込むのだった。 [*前へ][次へ#] |