砂時計
08
 
 日本では臓器移植法により十五歳未満は国内で臓器移植を行うことが出来ない。もちろん心臓移植も同じ。

 たまにニュースで報道されているが、日本国内では心臓を提供するドナー(提供者)が非常に少ないのだ。世界的に、特に日本は、レシピエント(移植を待つ人)の数に対してドナーが少なすぎて移植待ちなんて当たり前だった。

 そのため一刻も早く移植が出来るように大半の患者が海外に渡航してアメリカやドイツの病院に受け入れてもらい治療している。

 それでも、ドナーが現れるのを待たなくてはならない。

 半年、1年、最悪存命中に移植を受けられないということもある――とどれくらい待てばいいかも分からない。

 しかも日本では2006年度より診療報酬改定で、心臓や肺などの脳死移植について、医療保険適用がされるようになった。これにより日本国内での心臓移植が殆ど自己負担なしで可能になったが、海外の病院で行うには医療保険が適用されないために高額の手術費用が掛かる。

 診療報酬改定以前より、医療費の一部を保険給付の対象とする『高度先進医療』の制度が心臓移植でも適用されていた。これは対象となる心臓移植の場合、手術費用を除いた治療費などは保険で賄われていた。

 だが、海外での心臓移植の場合、手術費に検査や投薬、入院費など全額負担。プラス、滞在費やら渡航費も負担となるのだ。

 千歳は、まだ十五歳。発症時期は十一歳。当時は規定の制約で、日本国内で心臓移植は不可能だった。可能となる手段は、海外への渡航。

 ただ現在、誕生日までもう少し待てば国内での移植が可能になっていた。だからこそ国内で移植が出来るかもしれない機会に憐は希望を見出だしていた。

 だけど――千歳は移植を受ける意志はない。移植しなくても出来る限りの範囲での『生きる』ことを考えていたのだ。

 己自身の運命と向き合うことで。

 死を受け入れる、という積極的概念の下で、身の振り方について既に決めているということを。

 千歳にとって何かを決める時秤に掛ける。

 己か、他人のため、か。

 無論、どちらに錘が傾くかは明白である。

 己に問い掛ける答えは、必ず他人のために行動する。

 両方が欲しい、という欲張りなことは望まない。それが、烏滸がましいことであると自己を戒めていたからだ。

 他人に迷惑を掛けるくらいなら望まない。必要最低限しか望まない、言わない。

 千歳は常々思うが、はっきり言って憐は親馬鹿だ。懇ろ、好い加減子離れしないかとさえ思っている。

 兄たちも皆末っ子の千歳に甘い。目を入れても痛くないくらいの猫可愛がりようだ。

 恐らく望みを言えばすぐに叶えようとしてくれるだろう。神水葱家の財力で手に入らないものは恐らくない。

 だからと言って金に糸目をつけないような人物にはなりたくなかったし、父の憐や兄たちもそんなだらしない人間へと育てようともしなかったであろうが。

 何かを得るためには、何かを手放す。例えばそれが物であるなら、等価の金銭を支払うことで。

 心臓移植を望むなら、同等のモノ――手術費や検査費、投薬費など、費用が掛かるのだ。それが簡単に手に入るような買える“モノ”ではない。本来人間が踏み込むことの出来なかった命という領域に深く立ち入る、確実性のない危険だけが伴った“モノ”だったから。

 しかも、心臓移植の場合、脳死患者の生きている命を、己が生き存えるために使わなくてはいけなかった。

 それは――危険のという名の一方通行。

 見返りも大きいけれど、危険性の高い代償もある。保障が出来ないから、下手に綱渡りをすることも出来なかった。

 もしもの場合の失う犠牲は大きすぎた。

 言うなれば、秤で比べるなら“危険”の錘の方が思いっ切り傾くであろうことを。

 それが臆病で生きることに消極的人生論だと、人に罵られるかもしれない。

 まだ道が残されているのに、一筋の光明を絶っている、と言われるかもしれない。

 でもそれが千歳の選んだ道。生きるために指し示した道。

 他人を大切にする千歳が選択した手段であった。

 全く後悔はしていなかった。



 しかし――、

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