二節


***



「……ん」

 朝。陽気な日差しがカーテンの隙間から射し込んでくる頃に目が覚めた。

 シックな色合いの落ち着いたブラウン系で統一されている、まだ見慣れていない部屋。

 初めてここで意識が覚醒した時、ここが死後の世界――漸く地獄に行くことが出来たのかと勘違いした。

 傷が痛むせいで、ゆっくりと体を起こす。

 体が重いし怠い。目眩で、一瞬視界が歪む。だが昨日までとは違い、幾らか体が楽になっていた。

 昨夜、ここの部屋の主である医者と云っていた青年から貰った薬が効いたのか。

(――めずらしいな……)

 我ながら驚く。今までなら、他人から無条件に貰ったものは一切警戒して、余程信頼している者でなくては全く以て物を口にしなかった。

 信頼していた人物なんて、過去にひとり。だけど同時に嫌な記憶が蘇る。

「……っ」

 生きろ、と遺された言葉。だけど、生きる価値なんてあるのか、と自責の念に囚われる。

『ほら、笑えって。お前は笑った顔が一番なんだから――――』

 ほんのひと時の幸せな時間は、脆くも崩壊した。否、自分が崩してしまったのだと、改めて理解する。

 過去に思いを馳せた。たったひとり大切だった人をを思うと、胸が締め付けられる。苦しくて、行き場のない想いがこんなに苦しいだなんて。

 それならいっそのこと、あのまま死んでしまいたかった。感情なんてない、と思っていた自分が馬鹿馬鹿しいとこれほどに思ったことはない。

 結局大切なものが出来ても、自らの手で喪ってしまった。守りたかったのに、逆に庇われて守られた。

 死に損ないだ。

 自分の掌を見た。別に何も変わっていない普通の手。強いていえば、小柄な体格に反してその手は無骨で、随分と《たこ》が出来ていた。

 この手は――。

 暫くの間じっと掌を見つめて物思いに耽ていると、ガチャリと音がして扉が開いた。

「お、目ー覚めたか。体起こせるようだな。飯作ったけど、ここで食うか? それともあっちのリビングで食うか?」

 わざわざ話す気も起きなくて、返事せず無視する。放っておけば、そのうち部屋から出て行くだろう。

 人様のベッドを借りて寝ていたが、いつまでもここに長居するつもりは端から考えになかった。隙を見て、ここから出て行くつもりでいた。

 そんな浅薄な考えが、青年にはお見通しだったのだろう。

「無視するつもりか? 別に俺が勝手にお前を拾っただけだし、好き勝手しても構わん。無視しても良いけど、返事ねーなら俺も好き勝手にさせて貰うからな」

 それは暗に、無視するつもりなら強引な手段も厭わない、と明言したのだ。

「んじゃ、病院に行こっか」

 にっこり。場にそぐわぬに笑みは……怖かった。青年の『好き勝手させて貰う』の意味はこういうこと。

「病院に行って、逃げれる、と思うなよ? 入院になったとしても無理矢理でもずっと付き添ってるやるからなー。俺って親切だろー?」

 親切なわけないだろ。

 青年の台詞に対して思わず心の中で突っ込みを入れる。分かってて云う分、良い性格をしていると思った。

 多分、どのようにしても逃げ道はない。

「…………あっちの部屋」

 無視続行をすることを早々に諦めた。こういうタイプの人間は、粘着質な性格だ。

 ずきりと、ひとつのキーワードに引っ掛かって、あの時の記憶が脳裏に浮上する。

「そっか。じゃあ手貸すから急がずにゆっくりと立てよ」

 痛む傷を刺激しないよう注意を払いながら、立ち上がる動作を手伝って貰う。

 立ち上がるだけでも、かなり体が辛い。

 青年の体に寄り掛かりつつ歩きリビングのソファーに座ったが、何故か暫く青年から頭を撫でられっぱなしでいた。

 その手はまるで幼い子どもをあやしているようで、《傷》に優しく響いた。

 ずっとベッドに横になっていたせいで熱からくる汗は、ベタベタして気持ち悪かった。布団や着ている服は、今や汗でびっしょりと湿っている。

 不快なことこの上なかった。

 リビングに行ってみて分かったが、連日ベッドの住人だった自分は寝室から出てみて……室内なのにこんなにも空気が違うのだろうか。

「大丈夫か?」

 先程までのぶっきら棒で強引な台詞と打って変わって、不意に覗き込む青年の心配そうな顔。傷に対してなのか、それともあやすように撫でる手の意味にあるのか、その意味は分からないけれども。

 訊ねてくる分には、何かの意味があるだろう。

 元々他人に触れられることを極端に嫌う――苦手を通り越して嫌いなのだ――のに、怖いけれど触れられても拒絶しきれない。

 逆に拒絶しようとする心と、見ず知らずの人間である自分を拾ってくれた青年の優しさに触れて、表現出来ない複雑な気持ちに心がざわめく。

 心が見透かされて暴かれるかもしれないのに、不快なものではなかった。

 答えとなる感情の名前なんて知らない。

「そこでちょっと待ってろ」

 ひとり暮らしであるはずの部屋にしては随分と広いリビングでソファーに座らせられたまま、指示されたのはただそれだけだった。

 傷のことを心配してくれているのか、背もたれにクッションを二つ置いてくれている。

 座り心地の良いソファーは程良くスプリングが効いていて、上等な物だと座ってみて分かった。背中にあるふかふかのクッションが傷の負担を減らしてくれて、気持ち痛みが和らいだ気がした。

 大人しくソファーに座って待っていると、すぐにお盆に器やコップを乗せて持って来た。

 深めに作られている陶器のお碗からは、温かい湯気が立ち上っている。

「今日は鶏肉と長葱の味噌雑炊だ。で、こっちが薬用の水な。何か飲みたいもんあるか?」

 自ら人とコミュニケーションをとろうとしないために、一から十まで懇切丁寧に構ってくる。

(――赤の他人なのに……)

 死にかかっている自分を偶然にも拾ってくれるどころか邪険にもせず、素性も分からない自分をこうやって面倒を見てくれることに罪悪感を覚えた。

 親切とお節介を履き違えることを、あってはならない。

 この場合《親切》であると分かってはいるが、それでも――その《親切》が逆に痛い。

 凍り付いていたと思っていた自分のココロは、五寸釘がいくつも刺さっているじゃないかと思うくらいに、ズキンと痛む。

 でも、ただそれだけ。

「お前なぁ、その顔やめろって。何その歳で、全てを諦めてるって的な思考をしてんだよ」

 呆れた顔をしながら「爺くせぇー」と小さい声でそんなことを云われても、間違いなく聞こえている。

 でも云われてみて、多分自分は既に諦観視しているのだと、それだけは分かった。

「……爺臭くて悪かったな」

「ゴメン、ゴメン。悪気ねぇーって。ほら、笑えよ」

 青年は苦笑しながら「まずはカチコチの表情筋を解さなきゃなー」と云いながら、自分の両頬をムギュと掴んだ。

「……ってぇ!」

 解すどころか、これはある意味地味な攻撃としか思えなかった。何故なら、両頬を掴んでそのまま思いっ切り横へと引っ張られれば痛い。

 無痛症でもない限り、痛みを感じないわけがない。

「あ……飯が冷める。さっき飲みもんって聞いたけど、今冷蔵庫にコーラとりんごジュース、コーヒーがあるが、どれ飲むか?」

 ひとつや二つ文句を云おうとしら、上手く話をかわすようにして訊かれる。

「何でも良い」

 素っ気なく返事すると、はいはい、と言いながらまたキッチンの方に消えて行った。

 完全に、ペースを崩されてしまった。

「痛い……」

 先程掴まれた両頬は鈍く痛みを訴えている。右手を頬にやれば、少し熱を保っていた。

 変なことをされたと云えばそれで終わりだが、『笑えよ』のひと言は重要な意味を秘めているように思えた。

 それがどういう意味であるのかは、分からない。その名前すら、知らない。

「……いただき、ます」

 本当はあまり食欲はなかった。しかしながら、食欲はなくても空腹の人間の生理現象に簡単には勝てないようだ。温かい食べ物を前にして、人間の三大欲求のひとつはまこと正直らしい。

 作ってくれた雑炊を食べることにした。

 舌を火傷しないように息を吹きかけ冷ましながら、熱い雑炊をひと口ふた口と口の中に運んでいく。

 口内に、少し甘みある味噌の味が広がる。葱と生姜が鶏肉のしつこさを消しつつ旨味は生きていた。

 胃の負担を考えて作ってくれた、柔らかく煮込まれている雑炊は、文句なしに美味しかった。

「おいし……」

 自然と出てくる言葉。昨日の雑炊からも窺い知ることが出来るが、料理が得意なのだろう。

 そうしている内に、グラスにたっぷりと注がれているりんごジュースを貰った。

 口の中は熱々の雑炊のお蔭で火傷をしそうだった。貰ったりんごジュースをすぐに飲んで、火傷しそうな口の中を冷ます。

 雑炊にりんごジュースという組み合わせって……変な組み合わせだ。だが、飲み物のバリエーション自体お茶という選択肢がなかったし、おまかせにしたのは自分だ。飯をご馳走して貰っている身分上、下手な文句を云えた立場ではなかった。

「なぁ、名前」

「何?」

「名前……お前の名前だよ。何ていうんだ? 名無しじゃないだろ」

 名前を尋ねられても、今自分にある名前は存在しないに等しかった。

 《呼び名》はあっても《名前》はなかった。アイツに呼ばれてたあだ名は、呼び名の読み方を読み替えることで意味を成していた。

 今ここに生きているということは、それ則ち。

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