其処は異世界


 きっと人に知られたくないことがあるとしたら、それは世間一般的に後ろめたいとか赤っ恥をかくとか人の目を気にするとか、そういう理由であろう。
 いや、当たり前かも知れないが、人間生きている内に他人に知られたくはない秘密なんて結構抱えているのかもしれない。
 瑞希の場合、すべて引っくるめて該当していた。
 夜の街は昼と打って変わって異なる賑やかさで包まれている。
 特急・準特急やら快速などがひと通り停車する主要駅の駅前となると平日の昼は通勤通学者、休日はショッピングの為に年がら年中満員電車だ。
 そして――夜は歓楽街。飲み屋に自然と人が集って随分賑わう。終電逃して始発の朝帰りって人もかなりいる。二十四時間営業のファーストフードやファミレス、ネットカフェやカラオケに行き始発まで時間潰しするケースと、ほろ酔い加減で三次会、多いと四次会で明け方まで時間が過ぎていることなんてざらである。
 ネオンの輝きに、いろんな店の明かり。飲み屋の店員たちは街頭に出て必死に客を獲得しようとサービス券を配布していたり、友人同士やカップルを見つけては声をかけている。
 せこい話、割安で友人と食べようと思うなら、わざとPR中の飲み屋の店員の前を通れば良いのだ。
 時々、変な男が通りがかりの姉ちゃんにナンパして「うざい!」と軽くあしらわれている姿を見かけたりもする。
 飲み屋街から一本道を脇に入ると、居酒屋の雰囲気から一転してちょっといかがわしいお店があるビルが建ち並ぶ。だからと云って、皆一様にスーツを纏ったキャッチの人が路上に立って、通りがかった男性に対して声をかけている。
 この店もそう。
 キャッチの人が連れて来るフリー客は、リピーターとして繋がるかもしれないと淡い期待を持たせる。
 どこの町の歓楽街も、昔に比べて年々警察の取締りが厳しくなった。
 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律ーー通称、風営法ーーに伴い、摘発されて閉店を余儀なくされた店も多い。
 主要の駅前にはどこにでも盛り場はあるし、地方自治体によって営業時間の規制はあるものの、時間外営業が行われているのは日常茶飯事。警察も多少はお目溢ししてくれて店が成り立っているのが現状なのかもしれない。
 警察による一斉摘発もあるが、近隣住民によって店が煩いからと通報されるような場合もある。だが、同業者の嫌がらせで密告によって通報されることがしばしばだ。結局、こうして店があるのは、警察との鼬ごっこを続けているからだろう。
 この街の客は、若い人が賑わうにはちょっと落ち着いた、なんとか地元の客に支えられているお店だった。スタート料金が安い店は、それなりに客層もあまり良いものではない。
 不景気のご時世、景気の良かった時代に比べて客の出入りも少ない。好景気バブルの頃に比べれば盛り場となる通りは、随分と客足が遠退いている。
 職業柄、この世界の金銭は流動的で浮き沈みが激しい。だからこそ、水商売と呼ばれる由縁でもある。
 昔は若い人がこの職業で働く場合、家計の金銭的問題でやむなく働くっていうイメージが強い世界であった。今は、一時期テレビドラマ化したりとマスコミに取り上げられる機会があったせいで、イメージが随分と変わりつつある。
 外見、煌びやかな世界。
 売れれば、それはもう稼げる。ブランド品だって惜しみなく買えるかも知れない。又は、お客様にプレゼントで貰えるかも知れない。お金に糸目をつけない生活が送れるのだ。
 
――楽して稼げる仕事なんてない。

 瑞希も現実を目の当たりにして、思い知った人間のひとり。
 今なら言える。水商売は究極のサービス業だと。プレイヤーひとりひとりが自分を商品にして接客・サービスをもてなし、付加価値に酒がもれなく付いてくるのだ。
 だけど、氷山の一角に憧れて今日もまたこの世界に足を入れる者がいるとは、普通は思いもしないだろう。
 外観は、正直年季が入ったビル。年季の入り方が、顕著だ。豊城ビルという建物の名称は、ビルの《ル》の左側がなくなって中途半端に《レ》の字になっている。ぱっと見、豊城ビレと一瞬勘違いしてしまうであろう。それでも、店内は改装して、古さ臭さを感じさせない洒落感漂う綺麗な内装だった。薄暗い照明だが、いい加減な清掃をしていないことだけははっきりと分かる。
 店内は煩すぎない程度に音響が効いていて、流行曲から懐メロ、ゴスペルやジャズなどちょっと趣ある曲も流れていた。
「えーっ、めっちゃ怖いしー! 疲れていたとかじゃないんですかぁ」
「いやいや、体の上からがっちり圧し掛かられていた感覚があったって! 月(ゆえ)ちゃんはそういうこと経験したことない?」
「アハハ。そんな恐怖体験したことないですよー」
 自分の隣に座る男と話で盛り上がりつつ、グラスの中身の量をちらりと確認した。
(――あ、入れなきゃ)
 水割りが半分になっている。男が飲んでいたグラスを滑らかな動作で、自分の手元に引き寄せる。アイスペールからトングでアイスをひとつ取ってグラスに入れる。ハウスボトルの焼酎である《鏡月》をグラスに少しだけ注いで水を入れてから、マドラーで掻き混ぜる。最後にグラス周りの汗をハンカチで拭いてコースターの上に置く。
 話を聞きつつ動かしていた手は、これくらいは慣れた作業だった。
 瑞希にとって、非常に不本意だが。
「ほら、遠慮しなくても飲み物注文して良いんだからね。いつも云ってるけどさ」
「え、良いんですかあ? ありがとね、りょーちゃん!」
 内心バックがつくとガッツポーズするが、腹の内側を相手に見せることはない。表面的には純粋に喜んでいる姿にしか見えないだろう。
 テーブル上に置いてあった短冊の紙にボールペンで《梅酒水割り》と書く。
「お願いしまーす! りょーちゃんご馳走になります!」
 喜びを示す、にっこりとサービス用の笑顔――所謂作り笑顔だ――を瑞希は男に向けた。
 今宵も、駆け引きの中で。
 あくまでも、この世界は実力主義だ。実力と、その分の努力がすべて物を云う世界なのである。

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あきゅろす。
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