「我が同胞よ」
白い狐の低い声は、凛と夜闇に響き渡る。
その声は、鳥居の向こうで守られているヒトと、その頂点に立つ神子にも聞こえただろう。
私の言葉を、ヒトを喰らう号令を待つ同胞たちの目が、月明かりの下で怪しく煌く。耐え切れずに涎を垂らす戌を見て、白い狐は何度目かの嘲笑を漏らした。
白い狐は云う。
「私はこの地に飽いた。今宵、ここを離れようと思う」
物の怪たちの目に、動揺が浮かんでいた。
それも仕方ない話だろう。
今、目の前に最上級の餌を吊り下げられているというのに、彼らを飼う白い狐は『待て』をしたまま、ここから離れろと命令したのだから。
妖狐が、何か言いたげに提灯を揺らし、しかし黙って私の傍らに寄った。待ち望んだ宴よりも、私への忠誠を選んだらしい。
妖狐の英断を物の怪たちは顔を見合わせながら眺めていたが、一体、また一体と、己の持ち場へと戻っていく。名残惜しげに鳥居の向こうを眺める彼らの目を、白い狐は金色の瞳で見つめていた。
物の怪の行進は、現れた時と同じく、狐を先頭に二列ずつ並ぶ大行列へと戻った。違うのは、更にその先頭に、白い光を放つ九尾の狐が立っていることだ。
本来の頭領を得た百鬼夜行は、ゆっくりと前進を始めた。
白い狐の脚の下で、砂利が音を鳴らす。夜行が進むと乾いた音が延々と続いていく。
左右を覆う竹林道を、のんびりと、物見遊山のように進んでいった。
その脚が、ほのかに重い。けれどそれは、気付かぬふりをした。
あと少しで、かつての神域であった地域を抜ける。
凪波神社が最北に位置し、そこから東西南に広がる『剛天の神域』であったこの地を、白い狐は離れようとしている。
ヒトの時にすれば四年の月日。千年の刻を生きた白い狐からすれば、ほんの一瞬の出来事だ。ゆえに、まるで昨日の事の様に、この地で過ごした日々が思い浮かぶ。
それらをすべて、この地へ置いていかねばならない。この地を離れたと同時に、白い狐は物の怪の王たる存在へと戻るのだから。
ヒトに情を掛けた愚かな白狐など、物の怪の王に相応しくはない。だからこそ、そんな過去すらすべて置いていくのだ。すべての記憶を、ここへ捨てていく。
白い狐は、ヒトを捨てていく。
「白夜!!」
甘い声だ。
白い狐が聞き慣れ、そして焦がれた声が、名を叫ぶ。
夜行がざわついた。
歩を止めた白い狐が振り返る。
夜行の向こうで立ち尽くす姿を捉え、小さな小さな嘆息を漏らした。
獅桜。
鳥居から出て、夜行を見送る一つの影に、私は喉を震わせた。
濃紺の中に浮かぶ白い月のように、闇夜の中で立ちすくむ白と朱の装束を纏う獅桜は、彼自体が光を放つかの如く、柔らかで美しい存在感を放っている。
獅桜。
喉の奥で呼ぶと、私の足など、すぐに歩みを止めてしまいたくなる。
どうして、鳥居の向こうから出てきてしまったのだろう。このまま姿を見せず、私を恨んだままでいてくれれば、私は。
彼が、何度も何度も私の名を呼んでいた。
その声は、私に縋り付くものだ。
私を引きとめようと必死に叫ぶ声が、掠れて濁る。
もうやめなさい、と声を掛けてしまいそうだった。
彼の、笛の音のような美しく低い声が好きなのだ。今やその美しい声が、濁って痛々しい音へと変わってしまっている。
獅桜の目が、私だけを見つめている。
その大きな瞳から流れ出た一筋の涙に、私は背を向けた。
足は、一層に重い。
獅桜の声が響くたびに、夜行には戸惑いが沸き立つ。されど、私はなんとも無いことのように歩を再開した。
一歩、一歩と進み往く。
一歩、一歩と離れ往く。
鼻先に神域の終わりが差し迫っても、獅桜の掠れた声が耳に届いていた。嗚咽の様に途切れる声が、ただ、この身体へと狂おしい熱を沸き立たせていく。
神域を囲むように咲き誇っていた桜の花びらが、強い風に煽られて夜行へと降り注いだ。雨のように身体中に落ちた淡い紅色の可憐な花びらを見つめ、私は彼の姿を脳裏に焼き付けて、そしてすぐに消し去った。
濃厚な夜に咲く桜は、酷くか弱い色をした小さな花弁だというのに、儚くも麗しく宵闇を彩って、そして散っていく。
危うく、妖しい、美しいその花と同じ名を持つ彼は、同じ様に美しかった。その姿を、目を強く伏せて暗い黒の奥へと押し遣る。
身体を包んでいた熱も、同時に消えていく。私の足は、憮然と歩みを再開した。
神域を抜けて暫くの後、胸がどくりと熱く脈を打つ。
一気に力を吸い取られるような感覚と背後で濃厚になった桜の香りで、神域に新たな結界が張り直されたことを知る。
滞りなく結界を張り直すことに成功した獅桜の腕の良さに、私はくすりと一つ、笑みを溢して、すぐにそれを忘れた。
獅桜。
貴方に手を触れたのは、戯れでもなんでもないのです。
貴方を欲したのは、私の真なる想いなのです。
獅桜。
私は貴方を愛していました。
貴方と居られたほんの僅かな時を、私は、幸せだと思いました。
だからこそ、獅桜。
さようなら。
2013/3/9