むわりと、獣の匂いが辺りに漂った。
ああ、来たか。そうのんびりと顔を上げてみれば、本殿の神子と目が合った気がした。
鳥居の下に立つ私と神子は、遠く離れている。
視覚の優れた私から彼はしっかりと見えているが、ヒトである神子からは、私の姿など捉えられてはいないだろう。
それなのに、その目が、真っ直ぐに私を見ている気がする。
……私も、往生際の悪いものだ。自嘲を溢した。
リン、と、鈴の音が鳴る。
視線を鳥居の外へと移した。嗅ぎ慣れたはずの濃厚な獣の臭いが、いやに不愉快だ。
鈴の音が徐々に大きくなると、境内で身を寄せ合っていたヒトが震え始める。
物の怪たちの行列……百鬼夜行の始まりだ。
リン、リン、リン。近付いてくる。私の本来の『居場所』が。
一歩、鳥居の向こうへ踏み出した。
竹林道をゆったりと進んでくるのは、蒼白く淀んだ光を放つ異形の大群だ。
先頭に立つのは、かつて私の右腕であった黒い妖狐。私の姿を捉えるとすっと一礼して、口に咥えたままの青い火を灯した提灯を左右に揺らす。
すると、妖狐の後ろを付いていた物の怪たちは、一斉に膝を付いて私へと頭を垂れた。
「白夜さま」
ころころと鈴が転がるような声で、妖狐が私へと声を掛ける。
暫しヒトの世に居た私への忠誠は、少しも衰えていないらしい。
リン、と妖狐の首に下げられた鈴が鳴る。
頭を垂れる物の怪たちの私を見る目は、畏怖に支配されていた。私はそんな目に笑ってしまった。
ヒトでありながらヒトに崇められる凪波神社の神子と愚かなヒトたちを嘲笑ってはいたが、私も同じではないか。
物の怪でありながら物の怪たちに恐れられ平伏される。それが、千年の刻を生きた妖狐の王たる私だ。
鳥居の向こうで、悲鳴が響いていた。
私を取り囲むようにして移動し始めた物の怪たちの姿が見えたのだろう。
醜く顔の崩れたものや、鳥居ほどの大きさの身体を持つ鬼たち。
炎で包まれた巨大な生首。
一つ目の坊主。
緋色の旗を持った二足の戌。
ヒトとは大きく姿形の違う彼らに、ヒトはこの世の終わりのような顔をして震えている。
そんなヒトの姿を捉えた我が同胞たちは、私を見ていた畏怖の目とは違う、ただ本能のままにヒトを喰らうぎらついた色をした目を泳がせ始めていた。今まさに、その身体には耐え難い食欲だけが渦巻いているに違いない。
「白夜さま。我らはこの鳥居の結界を破れはしませぬ」
妖狐の声がする。
「どうか貴方様のお力で、ここを開けて下さいませ」
ふっと、小さな笑いが漏れた。
この鳥居を行き来出来る力があるのは、私だけだ。他の物の怪には、この向こうにいるヒトには手も足も出ない。
それを、破れと云う。
そして、ヒトを喰わせろと云う。
物の怪の頭領として、それに応えるのが正解なのだろう。
けれど私は、凪波神社の神子という愚かな人間に、僅かに情を移してしまった身だ。
私を慕う彼らの言葉には、頷けない。
「白夜さま」
妖狐の声が、私を急かしている。
私は、私の同胞たちにふっと笑みを返してみせた。
ほんの少し、目を伏せる。
足元からひやりと冷たい感覚が襲って、すぐに消えていく。私の身体から噴き上がった無数の白い光の玉が、濃紺の空へと飛んでいく。それはまるで、降り積もった雪が風で舞い上がるかのように軽やかに、そして朧気な光景だ。
光の玉は儚く霧散していく。私の姿は、ヒトから、白く輝く毛並みを持つ狐の姿へと変わっただろう。
一層大きくなったヒトの悲鳴が私を包んだ。
私を見つめる物の怪たちの目が羨望で飲まれている。
白い毛と、九つの尾を持つ私のこの姿こそが、私の本来の姿だ。
そして、ヒトの最大の恐怖の対象、『九尾の妖狐』。
今の今まで『神子』の従者だと思っていた男が物の怪に変わる光景を、ヒトはどんな思いで見ただろう。彼らを覆う恐怖を考えると、妙に可笑しかった。
白い狐は笑う。カラコロと鈴の鳴る音をした笑い声に、ヒトは声を発することも忘れていた。
2013/3/8