夜行の桜姫



 美しい満月の夜だ。
 見上げた濃紺の空にぼんやりとした光を放って浮かぶのは、作り物のように丸く白い月だった。
 咲き誇る淡い桃の奥に広がる濃紺、それをぽっかりと丸く切り抜いた月。まるで絵に描いたような光景は、なんと美しいものか。

 ゆっくりと視線を下ろしていけば、見慣れた神社の境内は、ヒトで溢れている。
 神子の声によってこの地のヒトは余さずにこの境内へと集められ、皆、今宵行われるであろう物の怪の行進に肩を震わせていた。
 こんなにも美しい夜姿だというのに、誰一人天を眺めてはいない。月明かりに照らされた顔は皆、青白かった。

「剛天さまと獅桜さまが守って下さる。安心なさい」

 母親が、傍らで震える子にそう言って微笑んでいる。
 笑えたものだ。
 剛天という神など、とっくに存在してはいないのに。

 結局、この地のヒトは『神』など欠片も感じ取ってはいないのだ。
 既に存在もしない神に対して両の手を合わせ、その加護を必死に強請る姿の、なんと滑稽なものか。
 そして、それを見て苦しげに目を逸らすこの地の『神子』の、なんと愚かなことか。


 ―その愚かさを、私は憐れに思っただけだ。
 そして、戯れにヒトの願いを聞き入れてやっただけだ。
 『神の代行』。
 なかなかに楽しい遊びではあった。
 だが、もう厭きた。
 機もよく、同胞達の行進が始まる。その先頭に立って、のんびりとこの地を離れることにしよう。
 もう近付くこともないだろう。
 物の怪としての本来の生き様の自由さが、今は恋しくて仕方がない。


 だから、私はこの地を去るのだ。




 本殿に立つ神子は、ずっと俯いていた。
 神子との決別を告げてから、彼は一度も目を合わそうとはしなかった。
 私も、もう彼には近付かない。
 手も伸ばさない。
 彼の細い髪を撫でることも、磁器の様に白くつるりと滑らかな肌に指を這わせることも、悪戯に華奢な腰を引き寄せてみることも、もうしない。
 すべてヒトの振りをしていただけだ。
 ヒトのように、その身体の温もりを感じてみただけだ。
 すべて、すべて、なんの意味もない。


2013/3/7



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あきゅろす。
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