夜行の桜姫




 この地で最も神聖な場所であるはずの凪波神社の境内すら、むせ返るような血の臭いで満たされている。
 満月の夜を前にして、民は続々と神社へと駆け込んできていた。
 神子である獅桜に守ってもらおうと、我先にと他を蹴散らして本殿へと押し寄せる。ヒトとは、なんと愚かで醜いのだろう。


 獅桜は、神社を囲む鎮守の杜の一角にある湖にいた。
 大きな水溜りのようなその湖を、獅桜は好んでいる。よく湖の縁に座り込み、細く白い脚をしっとりと水中へと浸している姿を眺めたものだ。
 僅かな風でゆらゆらと揺れる湖面には蒼白い月が丸く落ちて、風で作られる小さな波で消え失せるように崩れていく。
 それを強い眼差しで見下ろしていた獅桜は、私が背後から近付くと、ゆっくりと振り返った。

「あなたに守っていただきたいヒトが境内に押し寄せていますよ」
「……わかってる」
「どうするおつもりですか」

 問えば、獅桜の形の良い唇が歪んだ。ぐっと堪えるように引き結ぶ口に、私は苦笑を返してみせる。

「獅桜、私はあなたのためならばなんだって出来ますよ」
「……白夜」
「あなたにとって私は神の代替物でしかないのかもしれませんが、私にとってあなたは、私のすべてです」

 青い草を踏みしめて、獅桜の前に立つ。
 見上げてくる獅桜の漆黒の髪を中指と人差し指でなぞった。それだけで、胸が熱く痛む。

「私は、ヒトの命などどうだっていい。けれど守らなければ、あなたが苦しむ」

 指の間をするするとすり抜ける細い髪から目尻へ、そして淡い桃色の唇へと指先を這わせると、獅桜の瞳が艶やかに濡れ始める。
 最高の神子と崇められている彼も、その能のような堅い面を外してしまえば、年若い青年でしかない。滾る欲にすぐに流される。私はそれを知っている。
 若さと未熟さ故に決断をしきれない彼に、私は微笑んでみせる。

「獅桜、私を使いなさい」

 大きく左右に揺れた黒い瞳に、私は笑みを崩さない。

「満月の夜、物の怪はこの地のヒトを喰い尽すために、大勢で押し寄せましょう。私ならばすべての物の怪を留め、この地から引き離すことが出来ます」

 獅桜の目は、私の言葉の真意を探るように慎重に覗き込んでくる。
 そんな風に見ずとも、とっくに彼の中で答えは出ているはずなのに。未だ答えから逃れようとする愚かな彼が、今はただただ愛おしくて息苦しくもある。

「私は、本来ならば『あちら側』の上へ立つものですから。彼らを誘導することなど雑作もない」
「……この地から、引き離すって、」

 獅桜の唇が薄く開く。
 己の小さく震えた声に戸惑ったのかきつく口を閉ざしてから、獅桜は目を細めて見上げてくる。
 答えを待つように、そのまま大きな瞳で私の言葉を待つ彼の頬を手の甲でするりと撫で上げてから、微笑んで見せた。

「私が彼らを率いて、神域であったこの地から出て行きます。その間に、あなたは私の力を使って新しく結界を張り直せばいい」

 あなたなら、できますよね?
 そう目で言えば、獅桜の唇が微かに震える。既に潤んでいた瞳が、一層水気を湛えて見つめてくるのを、私は変わらぬ笑みで返した。
 気を抜けば、今にも獅桜を引き寄せて、その首筋に舌を這わせ、存分に彼というものを、そのすべてを味わい尽くしてしまいたい欲に駆られてしまう。
 けれど、それは決してしてはならない。
 大事な獅桜。
 大事だからこそ、私は。

「死にかけの神の結界などは無いに等しいものでしたが、私の力を使った結界ならば、あと数百年は物の怪を遠ざけましょう」
「白夜……」
「神は死したから神域とは呼べませんが、充分でしょう。もう、物の怪狩りなど面倒なことはしなくて済みますよ」
「白夜」
「鼻が曲がるようなこの匂いも、すぐに消えます。喰われたヒトは戻らないけれど、これからの身の安全を考えれば微々たるものでしょう」
「白夜!」

 湖面を揺らすような、獅桜の掠れた声が響き渡る。
 私を真っ直ぐに見上げる獅桜の目はもう濡れてはいなかった。
 代わりに、私を目で射殺すかのように眉間に深い皺を寄せて睨む。強い視線とは裏腹に、私の羽織の袖を掴む右手はカタカタと揺れていた。

「そんなことをしたら、お前はもう、ここには入れなくなる」
「……ええ。すべての物の怪を遮断するための結界ですから」
「もう、私の隣にも居られなくなるんだぞ!」

 普段の、人形のように静かな彼とは思えぬような怒声だった。
 喉が慣れぬのか幾度も掠れる声は、いつもの凛とした強さを失い、縋るような甘さを含んで私に届く。
 ぞくぞくと背筋を這うような甘美さが、その声にはあった。

 彼が、私を止めようとする。
 それだけで、私の胸は得体の知れない熱に食い破られてしまいそうだった。
 このまま焦らせば彼は、私が望む言葉を言うのだろう。
 神子として最低の決断を下すのだろう。

 けれど、それではならない。
 私は、あなたを守ると、そう決めたから。

「ええ。そうですね」

 なんとも無いように相槌を打つと、獅桜の目から力がフッと消えていくのが見えた。開いたままの口は何か言いたげに動いて、けれど音を発さずにいる。
 私は、はくはくと口を動かして目を見開いている獅桜に、今までで一番の満面の笑みを返した。
 獅桜は、呆然と見上げている。

「私は、物の怪ですから。あなたが物珍しく思えてこの地へと踏み入り、成り行きで神の代わりなどしてはみましたが、もう厭きました。ここにはもう、留まる理由もない」

 上手く、笑みを作れているだろうか。
 引き攣ってはいないだろうか。
 まるでヒトのような不安ばかりが押し寄せてきて、それがただ面白く思えた。ヒトと暮らすうちに、私にもヒトらしさが移ってしまったらしい。

 発する言葉が、私の真の言葉として獅桜に伝わればいい。
 得体の知れない恐ろしい物の怪としての本性として彼に伝わり、そして恐れられるといい。
 そして、私から手を離すといい。

「少しの間、楽しい思いをさせてくれた礼です。結界を維持する力も貸して差し上げましょう。私は……」

 さぁ、笑え。

「また新たな地で、面白きことを探しますから」

 縋りついていた獅桜の手を、私はそっと引き剥がした。




2013/3/6



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