夜行の桜姫




 獅桜。
 音にせず名を呼べば、鎖骨の下のあたりがきしきしと軋むように痛んだ。

 獅桜。
 もう一度腹の中で呼んでみると、今度は目頭が熱くなった。

 獅桜、獅桜、獅桜。
 何度も何度も呼ぶ。その度に体が紅蓮の焔に包まれたかのように熱くなって、その熱を持て余した掌はしっとりと汗で濡れた。


 これが誰にも治すことの出来ぬ病だと気付いたとき、私はあなたにだけは知られてはならないと思った。
 私が不治の病になど侵されていると知ったなら、あなたは躊躇しながらも私から手を離し、そして私を自由にするのでしょう。優しいあなたは、私をこの地に縛ることなどすぐに放棄してしまうのでしょう。

 だから、私はあなたには告げられなかった。

 どうぞ私をあなたの御傍に。そう告げたアノ日から、私は、あなたから離れたくはないと願っていたから。







 最近は、流れる空気が臭くて敵わない。
 ヒトよりも敏感な嗅覚には、ひらりと桜を散らした香しい風に混ざる不粋な鉄錆びた匂いが臭くてたまらないのです。

「大丈夫か」

 私よりも頭一つ分ほど背の低い獅桜が、私を一度だけ見上げて呟いた。
 それが私に向けられた気遣いの言葉だと気付いて、思わず両の口端を上げてしまう。根は優しいくせにそれを表に出そうとしない天の邪鬼な性分の彼が、まともに私を心配してくれることなど稀少だったからだ。

「ええ、大丈夫です。ですが、酷い匂いです」

 仄かに浮つきかけた声に平静さを上塗りしてそう言うと、そうだな、とぶっきらぼうな声色で獅桜が返してくる。


 凪波神社の境内を彩っている満開の桜は、ゆらゆらと迷うように左右に揺れながら地へと舞い降りて、社殿への参道には薄桃色が絨毯のように敷き詰められていた。
 参道の向こうに見える目が覚めるような濃い朱色の鳥居と、ぼんやりと霞むような淡い桃色とが見せる幻想的な風景。
 桜が咲き始めてから、私は何度かその風景に淡い嘆息を漏らしていた。吸い込まれそうなほどに美しく、そして危うい光景に、気を抜けば心を持っていかれてしまいそうだった。
 その浮世離れした美しい光景の中に立つ獅桜は、まるで彼自体が桜の幹かの様にしっかりと地に足を着けて、ぶれることも無く凛と佇んでいる。その立ち姿の美しさといえば、私には言葉で表現しきれない。

 優美で官能的な桜の吹雪の中、白い小袖と緋色の袴のみを身に着けた簡素な格好の彼は華奢な肩を片手で撫でてから、風で乱れた漆黒の髪を指先で軽く整える。
 線の細い彼はふと見れば女性的だ。けれどその手が筋張っていたり、衿元から覗くぽこりと膨れた喉仏で、彼の性が男性であることをはっきりと思い出させた。
 ちらりと見えた細く白いうなじに、無性に齧りつきたくなるのを必死に抑える。
 しっかりと白衣を着込んだ彼からは禁欲的な匂いしか感じ取れないというのに、私はそんな彼に酷く情欲を湧かせてしまう。

 職人によって丹精に創られた上等な人形のように整った美しい顔は滅多に笑みを模らず、いつもどこか達観したような目で遠くを見ている。その無機物のようでいてしっかりと意志を持った強い瞳が、私は好きなのだ。
 ぎしぎしと不穏な音を立て今にも崩れてしまいそうなぎりぎりの危うさの上でも儚く生きる彼に、耐え難いほどの色気を感じる。
 存在理由を持ちながらも、それはすぐに消えてしまいそうなほどに脆い。そんな壊れかけの人形にも似た存在に情欲を持つなど、私も大概にして厭らしい性分ではあるのだろう。



「またヒトが、餌にされたようです」
「ああ」

 獅桜の髪に舞い降りた桜の花弁を親指と人差し指で摘み上げながら言えば、彼は抵抗もせずに頷いた。
 指の中で二つに折られた花弁はほんの少しの間の前は愛らしい存在だったのに、今は折れ目が茶へと変色し、妙に気味が悪い。指先をそっと離すと、ひらひらと彷徨って地へと落ちていく。

「百鬼夜行の夜が近付くほど、ヒトは食い殺されていきます」
「……」
「明日の夜は満月。彼らが動くとするならば、満月の夜でしょう」

 押し黙る獅桜は、じっと桜の木を見上げている。私からは、彼の表情が窺えない。
 こうして黙っている時の彼はだいたい、仄かに眉間に皺を寄せ、唇をきつく噛み締めている。その表情も欲を揺さぶるものでなかなかに好きなのだが、わざわざ覗き込んだりしてしまえば怪訝な顔をされてしまうのでぐっと堪えた。

「何を迷っておられますか」

 問えば、別に、と素っ気無い返事だ。
 さっと身を翻して、獅桜は私の隣を通り過ぎる。一息置いてからその後をゆっくりと追えば、彼は真っ直ぐに本殿へと向かっていった。
 石段を上がり、木の戸を開いて、二本の蝋燭だけに灯された内へと進んでいく。
 私は戸に片手をついて、中へは入らずにその場で片膝を着いた。私は、その先へと入ることを許されてはいないからだ。

「何も迷ってなどいない」

 ぽつり。と獅桜が呟くと、その甘く低い声は私の耳をりんと刺激して、背筋をぞくりと冷やした。視線を上げると、彼は本殿に雄雄しく然と祀られている金色の獅子の像の足元で膝を着いていた。

「何も、一つも、迷ってなど」

 そう小さな声で吐き出す彼は、伸ばした左手で獅子の足を撫でてから、頭を垂れる。

「獅桜」

 私が呼べば、彼はゆるゆると緩慢な動きで頭を上げ、そのまま微動だにせず獅子を見上げていた。
 今の彼には、私の存在など頭には無いのかもしれない。
 この忌々しい金色の獅子の前では、彼はいつも私を蔑ろにする。それが罪滅ぼしだとでも思っているのなら、お門違いであるというのに。
 獅桜。と再度呼んでみても、彼は何の反応も示さない。本当に、私の声も届いてはいないのだろう。

 そっと音を立てずに立ち上がり、私は本殿へと背を向けた。
 ヒト達は、ここを去るとき、必ずあの金色の獅子に深々と一礼するらしい。
 それほどまでに、かの獅子には信仰の的なる力があるとは思えないのだが、私が口を出せることではないので、今にも苦笑してしまいそうになるのを堪えながら見ている。

 参道の石畳へと降りながら振り返ってみれば、変わらず獅桜は獅子の足元で請うように両の手のひらを合わせていた。
 その今にも崩れ落ちてしまいそうな細い身体を後ろから抱き締めてあげられたならば、なんと幸せなことだろう。
 そんな獅子よりも、私を頼り、私にだけ目を向けていればよいのに。
 少なくとも、その物言わぬ無機物の獅子よりも、私にはあなたを守る力がある。

 華奢な背中に投げ掛けそうになった言葉を嚥下して、その場から離れるために歩みだした。



2013/3/3



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あきゅろす。
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