しあわせの方程式
雨の日は手を繋いで



「……あ、雨」
 大学の外に出た瞬間、耳を擽るような雨音。空からは大きな粒が、地面に叩き付けるように降っていた。
 中にいる間は気付かなかったが、意外と降っている。
 念のため、と折りたたみ傘ではなく普通のものにしておいて、良かった。私は心底、ほっとした。
 雨は嫌いだった。部屋の中から雨音を聞いている分には心地良いのだが、一旦外に出て濡れると、もうそれは憂鬱の要因でしかない。

「……って、空、なんて私の傘に入ってるの?」
「うん? 唯が傘差してるから」
 空はさりげなく、私が持っていた傘を持ち、二人の真ん中で差していた。いつの間にか、濡れないようにと肩を抱き寄せてもいる。
 しかし、私の傘を持っている手と反対側の手には開いていない、開く気配のない黒い傘。男物のそれは空のものであることは問うまでもない。
「馬鹿! 濡れるでしょうが、なんで自分の傘差さないのよ?」
「えー、相合い傘したいから」
 当然のように、全てのデメリットを無視して、さらっと言われた言葉。おまけに、へらっとしたような気の抜けそうな笑みまで付けて。
 私は、思わず脱力しそうになる。
いつもながら、なんて奴なんだ。相合い傘、なんて呑気なことを言える雨の強さか。
「馬鹿じゃないの、本当! 私が風邪ひいたら、どうするの?」
「つきっきりで、看病してあげるよ」
 楽しそうな笑みを浮かべる空。
 彼の頭の中では、風をひいた私とその看病をする自分が想像されているに違いない。
 しかも、とても楽しそうな様子で。
 私も、それを想像して視線を反らした。
「……やっぱりいい、何か余計悪化させられそう」
 そんな私の言葉に、空はえーという声を上げたが、当てにならない。ベタベタくっついて来て、余計に疲労させられそうだ。
 私は、長い溜め息を一つ吐いた。
 そこで、私達の攻防は止まる。
 ……いや、私が諦めたのだ。
 馬鹿に付ける薬はないとは、まさにこのこと。その馬鹿に付き合う自分も相当な馬鹿だとは思うが、今更だと思う。

「……私が風邪ひいたら、看病くらいしなさいよね」
 わざとらしく大きな溜め息を吐いて、睨み付けるような視線を送る。
 空に看病なんてまともに出来るだなんて思ってはいないが。
「勿論!」
「……しかし、彼女に風邪ひかせる彼氏って、最悪だな」
 呟いた言葉に、空は「酷い」と叫んでいたような気がするが、綺麗に無視する。
 最悪なのは事実だ、事実。普通は濡れないように気遣う場面な筈だ。
 なんでこんな男と付き合っているか、本当に疑問だ。





「じゃあ、また明日ね」
 唐突なそれの声に、私は空を見る。
 その向こう側に見えるのは、いつも利用している駅。
 もう駅か、とぼんやり思う。
 傘の所為で視界が悪い。いつもと同じ道が、何となく違うように思えた。
 もう一度、空の方に視線を向けると、小さな笑みが返ってきた。
 ――そして、唐突に、傘の中で唇と唇が触れた。
 突然のことに、私は瞠目した。一瞬、時間が止まったかのような錯覚すら覚えた。
 傘で陰になっているために、誰にも見られることはない。
 空は、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべて、私の傘から出ていった。

 返された傘は、ずっと空が握っていた為に、温かかった。
 遠くなっていくその背中を見つめて、ただ一人傘の中で私は佇んでいた。
 断続的な雨音が、私の耳を擽る。それでも、傘という盾があるから、私の体がこれ以上濡れることはない。
「……傘、広いなー」
 隣にいた人間を思い浮かべて、その広さを感じる。
 体に残っていた、温もりも段々と消えゆく。残っているのは、さっきのキスの余韻。熱い頬だけ。
 私の呟きは、ただ雨音に飲み込まれていった。






2010.1.30



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あきゅろす。
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