しあわせの方程式
彼女と犬



 私は、大きな犬を飼っている……ようだ。


 駅の雑踏を、ぼんやりと右から左へ抜けさせながら、私は壁に寄り掛かっていた。
 確認した腕時計は、約束の時間の10分前を示している。久しぶりだったので、遅れないようにと思っていた所為か、少しだ早くなってしまった。
 まぁこれくらいは問題ないかなと結論付けるけど、それでもやはり暇を持て余しまう。
 知らず知らずのうちに、視線がきょろきょろとさ迷う。まだ約束には早いとは分かっても、何となく落ち着かない。早いとは言っても、私のようにちょっと早ければそろそろ来てもいい時間だと思う。

「……あ」
 誰が誰だか分からないような人混みの中に、見知った顔を見つけて、私は小さく声を上げた。
 同時に、その彼――そらの足は走りになった。
ゆいー!」
「わっ、ちょっ……!」
 静止を掛けようとしたがそれよりも先に、向かってきた空は私に体当たりするように抱き付いて来た。
 とりあえず加減はしているのか、倒れずには済んだけど、だからと言ってそれでいいかと言ったら話は別だ。
 公衆の面前だ。ちょっと視線を横に移せば、見ず知らずの人間と視線が合う。
「空、ちょっ……」
 熱くなる顔で、私は抗議しようとする。
 けれど、空は気にも止めずに私の体をぎゅうぎゅうと抱き締めていた。聞く耳があるのだかないのだか、いつもながら微妙な所だ。
 とりあえず、私もその腕の中から抜け出そうとするが、無駄な努力に終わる。
 少しだけ、周囲の目線が痛い。別に駅でいちゃついてるカップルなんてそう珍しくもないけど、やっぱり私は気になる。
 それでも、嬉しそうに私にくっついている空を見ると、抗議する気も失せてくる。結局、私は彼に甘い。

「……寂しかったの?」
 やれやれと諦めながら、私は溜め息混じりに問う。
「寂しかったよ」
 間髪入れずに、空から返って来た言葉。都合がいい耳は、私の溜め息は聞こえていないみたいだ。
 そこで、初めて視線が合う。
 そのまま空の顔が近付いて来て……まずい、そう思った瞬間には既に唇が触れていた。
 ――顔が、熱くなる。
 ここを何処だと思っているんだ、この馬鹿は。
 考えるよりも先に、私は空に平手打ちをしていた。加減したものの、いい音が鳴った。……音だけの筈だ、多分。



「……怒った?」
 しゅん、とした瞳で空は私を見ている。
 いつ見ても、子犬のような大きな瞳。そこには涙は浮かんでいないものの、不安で瞳は揺れていた。
 その頭に、垂れた犬耳が見えるような気がする自分は末期なのかも知れない。
「……怒ってないよ」
 溜め息を吐きながら、私はその頭を優しい手つきで撫でる。
 そうすると、安心したように空は再び笑みを浮かべるんだ。
 幾度目か分からない私の溜め息には、気付かれなかった。


 私は、大きな犬を飼っている。
 そして私は、その犬にとてつもなく甘い。






2010.1.2




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あきゅろす。
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