「ついに……この時が来たのですね。ナキア皇妃」 薄暗い部屋を蝋燭の灯りがわずかに照らしている。 「お前は私を愚かだと思うかい? ランカ」 床に落ちる陰は三つ。その内の女二人が水面を見つめている。 「いいえ、哀れだと思います。闇から抜け出せない可哀想な人……今の私と同じですね」 自嘲するランカへと皇妃は手を伸ばす。 「お前と私が同じだと? 愛しい男の子をなしたお前が……恋すら知らぬまま嫁いだ私と同じだと言うのか」 皇妃の手はランカの白く細い首を掴んだ。 微動だにしないランカを見て皇妃は更に力を加える。 女としての幸せをしっているランカが自分よりも不幸などと言わせない。 「皇妃! 落ち着いてください」 ランカをかばうように、ウルヒが皇妃の手をほどく。 「大丈夫ですよ、ウルヒさん。自分の限界は知っていますから」 自分を支えるウルヒの腕をやんわりとほどき、ランカは皇妃を見つめた。 「唯の暗殺者ごときに、感情を露にしてしまっていては、この先皇子殺しなど出来ませんよ」 何の感情も映らない瞳、無表情で淡々と機械のように語る。 「貴方がこれから行うことは危険な賭け。それをお忘れなきよう……」 皇妃はゾクリと身の毛が立つような悪感に襲われた。 ランカに対して恐怖と共に期待、そして危険を抱いた。彼女がいれば、望みが現実になるのも遠くないが、敵に回したら恐ろしい。 ランカは諸刃の剣であると、皇妃は思った。 「分かっておる。さぁ、始めようぞ」 皇妃が水面へと手をかざして呪文を唱える。 犠となる少女の姿が水面に写し出された。黒い髪と瞳を持つ、異界の少女。 (彼女が……次の仕事の標的) 争い事を知らないような無垢な少女を、手にかけなければならない。 (私が殺らなければ……痛みや苦しみを感じないで終わらせてあげましょう) それが、ランカにできるせめてもの優しさであった。 だが、事態は思わぬ方向へと向かうことになる。犠となる少女が他の泉へとたどり着いたのだ。 「確かにあの娘はこの国に着いている。この街にある残り六つの泉の、どこかに着いているはずだ」 「では、兵を捜しにやりましょう。ほどなく娘を御前に」 「そして、彼女の血を捧げれば良いのですね」 皇妃はウルヒとランカの言葉に頷いた。 「それでは、御前失礼致します」 二人は皇妃を残して部屋をでた。 ウルヒはそのまま兵へと少女を捜すように命じて、ランカは侍女の仕事へと戻った。 ランカがジュダの話し相手をしている時に、他の侍女達が騒いでいるのが聞こえた。 「まぁ、ジュダ皇子の御前だと言うのに……申し訳ありません。少々お待ちくださいませ」 断りを入れてから、ランカは席を立ち廊下で騒ぐ侍女達へと声をかけた。 「何があったのですか? ジュダ皇子の御前ですよ」 「ごめんなさい、ランカさん。でも、大神殿でお祭りがあって、カイル皇子がご出席なさるのよ」 仕事を休んでも一目みたいと言う侍女に呆れるランカ。 だが、ふと嫌な予感が頭によぎった。 「ねぇ、何のお祭りだがご存知?」 「天候神への犠を捧げるらしいわよ」 「テシ、ユプへの……そう、ありがとう。だけれども、ここでのお喋りは感心できないわよ」 ランカが優しく咎めると侍女達はおとなしく仕事へ戻った。 誰もが美しく、賢いランカに嫌われたく無いと思っているからだ。 一人、廊下に佇むランカは窓から空を見上げた。 「ナキア皇妃……何故、私には何もおっしゃらないのです」 天候神への犠はあの泉から来た少女だろう。 泉は天候神の管轄だから、少女は天候神へと還されるのだ。 巧い具合に、儀式というカモフラージュを使って少女の血を得ることができる。実に皇妃らしいやり方だ。 だが、何故自分に一言も告げずに行動に移したのだろうか……。 ランカの中で、皇妃に対する疑惑が少しずつ膨らんで行く。 「ランカ!」 名前を呼ばれてランカは振り返る。 「遅かったから、迎えにきたんだ。何かあったの?」 腰へと抱きついて来たのはジュダであった。 「ジュダ皇子……。お待たせして申し訳ありません。何もありませんよ、お部屋へもどりましょう?」 頭を優しく撫でながら、部屋へと促した。 ジュダに心配をさせないよう、笑みをうかべながら。 「結局、侍女達はどうして騒いでいたの?」 「本日、大神殿にて催し事が行われたそうでして……彼女達は貴方の兄君を拝見したいそうです」 部屋に戻ったランカは新しく水を入れていた。 「兄上に?」 「第三皇子のカイル様に皆さん夢中のようですね。確かに噂通りの方なら、さぞ素敵なお方なのでしょう」 侍女として働いていれば、彼の噂は嫌でも耳に入ってくるぐらい、有名な人であった。 だが、噂は尾びれがつくものだから、本人とはかけ離れてしまうもの。 まだ見ぬカイルの姿を自由に思い描きながら、ランカはクスリと笑う。 それは、作り物ではない本当の笑み。 そんな事をしていると、背中に重みと熱を感じた。そして、腰に回された小さな腕。 「ジュダ皇子、どうなさいました?」 「ランカがカイル兄上の話ばかりするんだもの。僕、つまらないよ」 おや、とランカは首だけ動かし一度ジュダを見た。 「カイル皇子の事はお好きではないのですか?」 「兄上は好きだけれど……今は嫌いだよ。ランカが僕と話してくれないから」 本当に可愛らしい、とランカは自然と笑みを浮かべた。 ジュダ自身はカイルに対して、妬いている事に気が付いていないだろう。 こうして、ジュダがなついてくれた事が嬉しかった。 けれど、別れの時が近付いていることをランカは感じていた。 皇妃がランカを信じていないこと、また、ランカもそんな皇妃を信じきれずにいるからだ。 |