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「お、あれは殿のお気に入りか」
向こう側の回廊をすべるように歩く優美な黒髪に、夏候覇は思わず声をあげた。
彼女は有名人だった。
魏に降ったときの話も、その武勇も、その容姿も。
かんざしなどの装飾品類はいたく少ないが、それでもそれは彼女の美しさを少しも損なうものではない。ゆれる裾さえ美しい。
「つんけんして冷たそうで、俺苦手なんだよなあ・・きれいなんだけど、笑ったらかわいいかもしれないんだけどさー」
誰とはなしにつぶやいて、おっと、と口を押さえる。
聞こえる距離ではなかったが、聞こえたらまずい。
不意に、ぽちゃん、と何かが落ちる音がする。
「? なんだなんだ」
中庭に、少女がひとり立ち尽くしている。
女官の見習いだろうか。
可愛らしげな少女だが、その目には涙が大洪水を起こしていた。
「おいおいおいおい、どうしたんだ?どっか痛いのか?」
「ま、鞠を池に落としてしまったの・・・っ」
思わず駆け寄ると、少女は中庭の池を指差した。
ぷかり、と浮かぶきれいな手まり。
とれってか。
とってやらないだめだよな。
わずかばかり、ためらいがうまれる。
何を隠そうこの夏候仲権。泳ぐのが苦手だ。よって水は苦手だ。
だがしかし、池に浮かぶといっても際で手を伸ばせば届きそうな距離ではある。よし。
「よーしわかった、ちょっとまってろ。お兄さんが取ってやるからな!」
「ほんと?」
「ああ本当だとも。ちょっと待ってろよ」
いざ。
池のふちのぎりぎりまで近寄ると、夏候覇はえいと腕を伸ばした。
指先が鞠にかする。
もう少し。
そう思ったところで、風がそよいだ。
鞠が奥へと逃げる。
もうちょっとなのに。
「あ」
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