沈殿した汚物
1
出席簿にバツをつけなくてすむことの喜びに担任は打ち震えていた。長らくバツをつけ続けていた村崎が今日、やっと、やっと登校してきたのだ。久しぶりにクラス全員がそろった状況を噛み締め、全員の顔を何往復めか分からないぐらいに見渡した。にやけ顔がとまらない。
そんな担任に一つ気に入らないことがあるとすれば、1週間以上も連絡なく休んでいた村崎が、あまりにも堂々としれっとしていることだ。もう少し居心地悪そうにしていれば可愛げがあるものを。……それもまあ、この喜びを前には些細なことだ。
喜びと同時にほっとした。無断での欠席が続くと、全寮制の桜ノ宮学園では保護者に連絡することになっている。あの声、会話のリズム、もう電話をしなくて良いと思うと、失礼かもしれないが気が楽だった。
村崎ゆうとの父親は、えらく興味がなさそうだった母親よりもなぜか嫌悪感を抱いた。柔和なしゃべり口調で丁寧な物腰ではあったが、暖簾に腕押し、もしくは豆腐に鎹、手ごたえがなく、どうもつかみどころがない。こちらがどれだけ村崎の安否を心配しようとも、「心当たりがありますのでご心配には及びません」と強く介入を拒否された。
あのタイプの人間は、踏み込まないに限る。それにあの物言いはまるで……担任は己の考えを振り切るように首を振ると、気合いを込めて「今日も1日がんばるぞ!」と笑顔をつくった。
教室を去り際に村崎をチラ見した。どこにでもいる容姿をしながらも、どこか人目をひく。なにを考えているかわからないミステリアスな瞳。
「ゆうとが学校を休んでいる……あの子はふらふらと浮き草のようなところがありますので、学生の時分はある程度自由にさせようと思っています」
”学生の時分”は?
卒業をしたら、どうなるというのだ。
「そんなことよりも、学校ではどのような様子ですか? 馴染めてはいないでしょうが、なにか、いじめなどで怪我をしていないか心配で」
”いじめ”自体ではなく、”怪我”?
怪我がなければ、どういじめられ、傷つけられてもいいとでも言うのか。
「勉強? ああ、大丈夫ですよ。あの子は生きていてくれるだけで」
”勉強”が、できなくてもいい?
むしろ、余計な知識をつけてくれるなと言っているようだった。
「先生、なにか変化があればすぐに知らせてください。わたしはあの子が成長していく姿を一番近くで見られると思っていたのに、年端もいかぬ小さな頃から全寮制の学園に入れてしまって、毎日の変化の様子を見れないのがとても残念なんです」
まるで、村崎の自立を拒むような、手の内で、甘い汁を吸わせながらじわじわと殺していくような、閉塞感。
◇
生徒の自主性を重んじる桜ノ宮学園では、その生徒の中心となる生徒会室は無駄に広い。
ドアから入って奥に会長の席、右の壁側に副会長、書記、左の壁側に会計、庶務の机があって、右の奥には仮眠室や給湯室なども配置されている。そして、部屋の中央にはふかふかのソファが向かい合わせに置かれており、生徒会の面々は仕事の合間にしばしばここでティータイムを楽しんでいる。副会長が紅茶に凝っているのだ。
そのソファに今、潮と四郎ケ原が横に並び、その前には副会長が座っている。副会長が手ずからいれてくれた高級な紅茶が、良い香りを放っている。副会長と潮はそんな生徒会室でいかにも楽しそうに談笑しているが、その隣で四郎ヶ原は緊張の面持ちで所在なさげだ。
「それはそうと、よく会長がこんなしょうもない話に乗ってくれましたね」
「案外乗り気だったぞ!」
「うーん、最近、会長のキャラが掴めなくなってきました」
副会長が困惑した顔をしながら、紅茶を口に含んだ。「なあ、即決だったよな!」と潮が同意を求めると、少し離れた自分のデスクに座っている会長が頷いた。信じられないぐらい綺麗な顔で、「俺は昔からこんな感じだが」と不思議そうにしている。
会長の机の上は書類が山積みだが、一枚たりとも手に取る気配はない。それどころか会長はお茶請けに出されたクッキーに手を伸ばし、書類の上でのんびりとティータイムを楽しんでいる。
顔、スタイル、知能ともにずば抜けているこの生徒会長に、心の底から尊敬の念を抱いていた時期が副会長にもあった。少しのやっかみもあって、今ひとつ踏み込んだ仲にはなれなかったが、最近は急激に仲が良くなっているのに反して会長の株もどんどん下がってきている。
この人は案外あほだ。
「そういえばさきほど風紀委員が乗り込んできて、一度風紀委員長と話し合う機会をつくってほしいと言ってきましたよ」
「そうか」
そう言って、伏し目がちに顎に手を当てている姿はなんとも思慮深く、窓からの柔らかな光がまつ毛に反射してそれはそれは神々しい。
「風紀委員長は同じクラスだからいずれ顔を合わせることになるだろう。そうなればあいつも黙ってない。だが、俺もそろそろ授業に参加しようとと思っている」
会長は顔を上げ、副会長に強い眼差しを向けた。綺麗な顔のせいで妙に凄みがあるが、右手には依然としてクッキーがあってなんともしまらない構図だ。
これはなにかまたとんでもないことを言い出すと副会長は身構えた。ここ数日で、会長の思考回路はどこかおかしいということを散々覚えこまされた。
「つまり、俺は風紀委員長と顔を合わさないようにすればいい。俺が教室に行っている間、徹底的に手分けして問題を起こしまくれ。風紀委員長が出て行かなくてはいけないぐらいの、な」
これが学園代表の言葉である。
しかも、つい最近までは真面目に学園をまとめ上げてきた人物だ。その変わり身の早さに副会長は脳みそがくらくらした。
現在、桜ノ宮学園は前代未聞の混乱の真っ只中にある。ゆゆしくも、開校以来長く続いた生徒会の歴史に泥が塗られたのだ。
生徒会長を含め、副会長、会計、書記、庶務の計5名全員が仕事を放棄した。
表向きはこうである。
「転校生、大河内潮に劇的に恋をした生徒会役員が潮に構うことに必死で仕事をしなくなった」
当然、このままでは潮に反感を持つ生徒が多く、危険である。しかし、潮はなんと言ってもL組だ。生徒会ごときには関心のないゴーイングマイウェイなL組にいるぶんには被害はない。なにより潮がオッケーを出している。
そしてこ、こ最近の四郎ヶ原六美との仲の良さ。新たなお気に入りと噂される潮に手を出すことの危険さをみんな感じ始めている。
「そこまでしないといけませんか?」
副会長もこの計画に乗った実行犯である以上、強くは言えないが、それでもやはり思う。これはそれほどまでに順風満帆だった自分たちの学生生活を棒に振ってまでやる必要があったのかと。
潮の隣で今まで置物のようにおとなしくしていた四郎ケ原がビクついた。不安そうにしている四郎ケ原に、潮はその手をぎゅっと握りしめた。大河内潮は決めたのだ。
「そんなの当たり前だろ!」
「もちろんだ」
潮と会長の声が重なった。
潮と会長は顔を見合わせ、頷いた。きっと同じことを考えている。
大河内潮は、大切な友だちのためにこの学園をむちゃくちゃにすることを決めた。
山路悠人会長は、全校生徒と四郎ケ原六美を天秤にかけ、たった1人の人生の方に価値を見出した。
四郎ケ原六美は、向けられる潮の笑顔をどう受け止めたらいいのかよくわからない。わからないが、安心させるように力強く握られたこの手は離してはいけないと思った。
桜ノ宮学園は、四郎ケ原六美を中心に荒れ狂う。
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