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沈殿した汚物
15


今日もばあちゃんは朝から庭の手入れに勤しんでいる。村崎はその姿を窓越しに確認し、再び手元の本に目を落とした。

四畳半の小さな一室。窓際には、小さく年季が入った文机が置かれている。そこに座ると、木漏れ日が美しく降り注ぎ、やわらかな日の光で本が読めた。この家での村崎の定位置だ。そして故人、村崎の祖父の特等席であった場所だ。


かつて、村崎の祖父はここには住まず、たまにふらふらとやってきてはこの場所で本を読んでいたのだという。頻繁ではなかったと聞いた。仕事も多忙であったようだが、祖父には別に家庭があったからだ。

村崎の祖母は、祖父のいわゆる愛人だった。

社交の場に連れて行かれることも共に住むことも叶わなかった祖母だったが、いかに祖父に思われ、大切に慈しまれていたのかは、家のあちこちを見るとよく分かる。

お気に入りの机に本、庭の大きな桜の木。広くなだらかに続く田舎の広大な景色に、遠くに見える祖父の母校。学友たちとの思い出に浸りながら、ここで木漏れ日に照らされ、静かな時を過ごしたのだろう。

祖母の壮絶な孤独や劣等感、正妻の惨めさや恨みをおざなりにして。ーーどんな気持ちだっただろう。

ここは、好きなものを詰め込んだ、まるで子どものおもちゃ箱のような世界だ。

たまにこうして、村崎は学園から離れ、ここで休息をとっている。ちょうど村崎の祖父が世間から逃れてここで過ごしていたように。


昼には村崎は祖母と庭先でおにぎりを食べた。今は何を植えているとか、今年は何の野菜がよくできているとか、祖母が話してくれるから、村崎は相槌を打つだけでよかった。きっと村崎が学園を抜け出した理由を問い詰めたいはずななのに、祖母の振る舞いはそんなことを感じさせなかった。

梅干しの入ったおにぎり。あったかいお味噌汁。だし巻き卵。おいしい。

食べ終わったあと、祖母はお茶を啜り、村崎は傍に置いていた本を再び手にとった。2人の間にもう会話はない。が、2人とも離れようとはしなかった。2人とも、なんとなく人と近くにいたい気分だった。

夏目漱石の『こころ』
美しい文体に、柔らかな寂寥感。村崎が未だ経験したことがない「恋」について描かれている。村崎が新しくページを繰ると、そこに茶色く変色した花が挟まっていた。


「どした?」


祖母は村崎の些細な変化にも気づいて心配そうに顔を確認したあと、目線を追って手元の本を見た。

変色はしているが、その形状から桜だということがわかる。さっと祖母の頬に朱色がさし、目を嬉しそうにまんまるにして、弾んだ声を出した。

本に桜の水分が滲んでしまっていて、文字の部分までもが茶色く変色してしまっている。


「なつかしい!」


曰く、たまにしか来れない祖父が、桜の開花期にこの家を訪れられない年があったそうだ。その年の見事な桜を見られないのは誠に残念だと思った祖母が押し花にしたらしい。祖父のお気に入りの1冊で。


「本を汚してしまって困った顔をしてたのに、置いといてくれてたのか……」


恋は罪悪ですよ。

本当にそうなのだろうか。大切な本を汚されたのに、怒れなかった祖父の感情は、本当に悪いものなのか。傷つけた人たちがいるから、裏切ってしまった人たちがいるから、幸せになってはいけないのか。


ジリリリリリリ

電話だ。

祖母が大急ぎで立ち上がった。しばらくして祖母の険しい声が聞こえてきた。確認すると、受話器に手を当て、村崎に電話の向こうの声ができるだけ聞こえないようにこそこそしている祖母がいた。その行動で電話の相手が誰なのかだいたい想像ができた。

村崎は腹の底に重い物がたまっていくような感覚に襲われた。


祖父母の関係はもちろん褒められたものではなく、周りにさまざまな影響と迷惑を及ぼした。その一つが、彼らの子どもだ。才能溢れるその少年は、複雑な家庭事情のため、大いなる劣等感を抱きながら大人になった。そしていつの日か祖父の会社を乗っ取って正妻の子どもたちを見下すことだけを夢見、そして実際に、やってのけたのだ。この恨みと妬みを糧に生きてきた人間が、村崎の父親だった。

村崎は静かに近づいて祖母の受話器を背後から抜き取った。驚きと心配をにじませた祖母を安心させるように村崎は微笑んだ。


「もしもし」

「……ゆうと?」

「うん」


村崎の父親の声は、言葉を探すようにほんの少しの間だけ揺れた。


「いつでも帰ってきてもいいからね」


どうして学校に行っていないのか。なぜ祖母の家にいるのか。村崎の父は村崎になにも聞いてこない。ただ、いつも村崎の退路だけを用意し、待っているのだ。村崎が自らの手中に戻ってくることを。

祖母が席を立った。彼との会話を聞かれるのは居心地のよいものではないので、ほっとした。


「おれ、今の学校は嫌いじゃないんだ」


受話器のひもを指先で弄ぶ。


「そっか」

「うん」

「また帰っておいで。みんなゆうとの帰りを待っているよ」

「……うん」

「愛している、ゆうと」


愛、愛、愛……。
恒例の父の挨拶に、いつも通り返事をできないまま、電話を切った。

受話器を握りしめ、目を閉じる。そうして細く細く息を吐いた。

大丈夫、まだ大丈夫。



「ゆと」


しばらくして祖母が声をかけてきた。なにも言わないが、表情が大丈夫かと聞いている。だから村崎はゆっくり受話器から手を離し、一拍おいてから微笑んだ。


「心配しないで。おれ、大丈夫だから」



まだ、大丈夫。……たぶん大丈夫。

笑顔をつくるのに時間がかかったことに、気づかれていなければいいと思った。



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