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沈殿した汚物
14


なにごとかを小さく呟いたきり、四郎ヶ原は生気が抜けたようにぴくりとも動かなくなった。

また負けるのか。また、勝てないのか。数多の人間に天才天才と褒めそやされても、彼はその心に未だに初等部2年生時の敗北感を抱き続けている。


「くせえ」


吉武の機嫌の悪い声が場の空気を一変した。


「くせえ、くせえ、くせえ! おい四郎ヶ原お前は風呂に入ってないだろくせえぞ風呂に入ってこい!」


いくら罵倒されても促されても、四郎ヶ原はただ俯いたままだ。聞こえていないのかもしれない。

吉武はこのままではラチがあかないと舌打ちをして、四郎ヶ原のだらんとした腕を無理矢理引っ張りずるずると風呂場まで運んだ。その際一瞬だけ会計を鋭く睨んだ。こいつが余計なことを言うから。とその目が雄弁に語っている。

取り残された2人は風呂場に消えていく2人を見送り、会計は「あはは、友達おもいだねぇ」と揶揄るように言ったが、近くにいる薫はなにも聞こえていないかのように素知らぬ顔だ。

会計はこの薫という名前に似合わずごつい男が、吉武以外とまともに会話しているところを見たことがない。


「権野に四郎ヶ原がいらないというのは嘘だよ。喉から手が出るほど、うちの一族はあの天才を欲しがってるからね」


予想通り薫からは反応は返ってこない。


「みんなが羨ましがっている四郎ヶ原は、なぜあれほど村崎くんを羨ましがっているのかな? ねえ、薫くん?」

「……」

「君はさ、いつまでそうやって黙りを決め込んで、吉武クンの人形をしてるつもり? 楽はダメだよ。自分の目で見て、手で触れて、考えて、自分で自分の言動に責任を持たないと」

「……」

「もっと、きちんと生きな」


薫はやはりなにも喋ってくれない。顔を見ても無でしかなく、そこからなにかを読み取ることは会計にはできなかった。まあ、かといって人間である以上なにも感じていないということではないだろうと勝手に判断し、ここは妥協しておくことにする。

般若のお面をかぶった吉武が風呂場から戻ってくる前に、会計は第2美術室から退散することにした。とりあえず今回の目的は済んだのだ。


会計は人気のない廊下を進んだ。1時間めの授業の終盤ぐらいの時間帯だ。春の暖かい日差しが窓から大量に降り注ぎ、廊下もまた暖かかった。

ああ、今までで1番気持ち悪い四郎ヶ原。抽象画なんて描き始めて。彼はこれからさらに変化するだろう。

脳裏に特徴のない顔でまっすぐこちらと対峙する村崎が思い浮かんだ。なんて使い勝手のいい四郎ヶ原の火付け役なのか。
世間一般でいう美形ではないくせに、四郎ヶ原のような天才や成海などの人気者を前にしても、その目に謙遜も畏怖も引けめも宿さない村崎。彼は目を見張る美形ではないが、なんとなくその在り方が美しい人だと思う。

その村崎との仲をひっかき回すことで、四郎ヶ原はより高みへと昇っていけるのだ。

昨日の夜、唇を真っ青にして震えていた村崎がチラついたが、すぐに消えてなくなった。罪悪感はない。


「村崎ゆうとはいらない。四郎ヶ原六美がほしい」


室町時代から続く日本画の名家である権野一族。明治時代、積極的に西洋画を取り入れたもう一つの権野一族。

名門権野の末裔、権野秋風。
かつて名門から離反した権野の末裔、権野春月。

今2人が桜ノ宮学園にそろい、 そこに天才、四郎ヶ原六美がいる。







脱衣所の扉を荒々しく開けた音がした後、なにごとかを怒鳴る声がした。浴室から映る人影は2人分。


「くそあのチャラ男め! ……おい、四郎ヶ原しっかりしろ。お前が1番すごいんだから、自信持て」

「でも、村崎の方がいいって……ぐすっ」

「泣くな。村崎の方がいいわけあるか、お前の方がすごいに決まってるだろ」

「みんな、知ってるんだ……。村崎が実は誰よりもおっきな才能持ってて、今はただ使ってないだけってこと……」

「使わない才能は才能じゃない。お前も才能を持ってて、ちゃんと使ってるだろ。もし村崎があとから追いかけてきても追いつけないから、だから大丈夫だ。安心しろ」

「う……ひっく、うえっ……」

「泣くなって」


人影が1人分消えた。なんの話をしていたのだろうと体を洗いながら潮は思う。

しばらくすると浴室の扉を開けて、四郎ヶ原が入ってきた。泣きはらした目が緩慢な動きで泡だらけになっている潮をとらえた。数秒間見つめあった後、「だれ?」と四郎ヶ原が元気なく呟いた。


「う、うしお、だけど……」


とはなんとか答えられたが、ただいま潮は冷や汗だらだらだ。め、眼鏡、カツラ……。眼鏡は脱衣所に置いてきたし、かつらは味噌汁まみれになったから絶賛洗って乾かし中である。

四郎ヶ原が腫れぼったくなっている瞼をぱちんと一度閉じてから、納得いったような声を出した。


「その顔見たことある。ニュースで、日本人とどっかの国のハーフがどっかの国際大会でいい成績残したみたいなことを言われてた」

「う、うん、まあ、……うん」

「顔が綺麗だったから印象に残ってた」


潮の明るい茶色の髪は案外短めで、目が、かつての村崎と同じ色をしていた。きれいなブルー。


「そっか、潮も特別なのか」

「?」

「なあオレも風呂入りたいから、出たら言って。そこの脱衣所にいる」


なんだか覇気がなくて消えてしまいそうな背中だった。





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あきゅろす。
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