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沈殿した汚物
12


「なあおい、んなことどうでもいいから、ちょっとここ開けてくれ」


吉武が親指を第2美術室に向けた。仮にも先輩である会計に向かって偉そうにふんぞり返っている。そんな吉武は明らかにおかしい潮の反応やら先ほどの会計の言葉にはなんの興味もないらしい。

チャイムが鳴った。1限目開始の時刻だ。普段なら教室で、授業が始まることへの絶望感に打ちひしがれている時間である。

授業をサボっている後ろめたさはあるが、そんなことを上回る勢いで潮は自分を知る会計に驚いていた。会長といい会計といい、この学園はすごい。こんな自分を知っていてくれて尚且つ気づいてくれる人間がまさか2人もいるなんて。


「いいけど、吉武クンがこんなに怒鳴ってるのに出てこないっていうのは相当集中してるんじゃないのぉ? ていうか、いつも連れてる相方クンは? 珍しく1人?」

「薫はそのうち来る。なあ、今回の四郎ヶ原、そんなにヤバいか?」

「んふふ」


今までで一番気持ち悪いね、と会計は起用に目だけで笑った。

一般の生徒にはあまり注目されていないが、生徒会会計である権野秋風は会計の他にもう1つ役職を持っている。美術部部長だ。

もともと資料室として使われていた第2美術室、通称四郎ヶ原のアトリエは、授業やクラブで使う美術室と隣接している。その両者を隔てる壁には「扉」がある。美術部部長の肩書きを持つ会計は、その扉の鍵を持つ唯一の生徒である。


吉武に促されて第2美術室へと繋がる扉を開けると、まずらテレピン油の独特な刺激臭が潮の鼻をついた。四郎ヶ原は油絵をすることが比較的に多いので、四郎ヶ原の周りにいる者はこの刺激臭をよく鼻にする。換気もろくにしていないなのだろう、室内に匂いが充満していた。病気になりそうな濁った空気だ。

真ん中に四郎ヶ原がいた。巨大なイーゼルに大きなキャンパスを立てかけ、指は絵の具でドロドロになっている。扉が開いたというのにこちらを一向に見ようとしない。

感極まった潮が「むつみ!」と呼びかけるよりも先に吉武が「四郎ヶ原ァァ!」と全力でその頭をぶん殴っていた。


「いったあああああ?!」


吉武が殴るタイミングを見計らったのかはたまた偶然か、たぶん後者であろうが、殴られた衝撃でキャンバスが不用意な色で汚れることはなかった。カツンという至極軽い音と共に四郎ヶ原が右手に握った筆を取り落としていた。床に敷いたブルーシートが絵の具で汚れた。


「なに、なに!?」


痛む頭を押さえながら涙目で四郎ヶ原が叫ぶ。

四郎ヶ原は平々凡々、どこにでもいる日本人らしい特徴の薄い顔をしている。潮がその顔に特別感想を持ったことは今までなかったのだが、この瞬間馬こわいと感じた。

肌は荒れ放題、薄っすらヒゲを生やし、今にも倒れそうな青白い顔をしている。大きくも小さくもない目は落ち窪んでいて、それでいて輝きは失っていない。ふわふわの猫毛は幾分かしっとりしているように見える。


「まるで病人だねぇ」


会計は固まる潮の耳元で小さく呟いてから、軽やかな足取りで窓辺に向かい、遮光カーテンを開けた。仄暗かった室内がパッと明るくなった。

窓が開かれ、清涼な風が入ってきた。

先ほども述べた通り、四郎ヶ原のアトリエは元は美術資料室であった。四郎ヶ原がまだ中学生だった頃、この教室は現在の用途に使われるために大改造された。資料室だった名残りで石膏像やら代々の美術の教科書、資料集が棚に収まっているが、そこ以外はこざっぱりとしたなにもない空間だ。大改造は主にトイレや風呂を付けたことによるものだった。費用は計り知れない。

生徒1人に与えるには広すぎる教室の真ん中にブルーシートを敷き、絵を立てかけ、四郎ヶ原はポツンと座っていた。

潮にしてみれば、そこはなんだか寂しい空間だった。

吉武と何度か言葉を交えていた四郎ヶ原はだんだん顔面を蒼白にし、いつの間にか汗をだらだら流すようになっていた。唇も白っぽくなってぶるぶる震えている。そんな四郎ヶ原に慌てているのは潮だけで、駆け寄って心配したのもまた潮だけだった。


「どどどどどどどうした!?」

「うう……」

「死ぬなむつみぃぃ!!」


わあわあ煩く喚く潮の頭に「うるさい」と言って吉武は鉄拳をお見舞いした。ぐわあああ、なんて叫び、悶絶する潮の隣で、動けずにいる四郎ヶ原をなんとか抱き上げ連れて行く。よっ、という軽い掛け声とともに持ち上げたが、吉武の顔はなかなかに辛そうだった。四郎ヶ原は確かに小さい方だが、無駄に力が強いだけで特別鍛えているわけではない吉武にとっては楽な仕事ではない。


「がんばってるねぇ。ああいう力仕事は相方クンの役目だろうに」


会計は誰に言うでもなく思ったままを口にした。静かに見送った後、床に転がる潮を見下ろした。


「ねえ、いつまでもワカメついたままで気持ち悪いでしょ? お風呂入ってきなよ」

「六美、具合でも悪いのか?」


人の言葉を無視して真剣な顔で聞いてくる潮に、会計は思わず吹き出した。潮の頭には、大きなタンコブができている。どんなに真面目な顔をしたところで締まらない。

確かに知らない人からすればそう見えたさもしれない。目を白黒させている潮に、会計は安心させるように笑いかけた。


「あれはね、トイレを我慢しすぎてることに今さら気づいて動けなくなってただけだよぉ」


びっくりして反応できずにいる潮を、会計はにこにこしながら観察し、その後再び風呂の方向へと誘導した。



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あきゅろす。
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