沈殿した汚物
9
がやがや騒ぎ立てるクラスメイトの一言が、潮は聞き捨てならなかった。
「六美がいなくなるのがいつものことってどういうこと?!」
勢い良く立ち上がった潮にさっきまで盛り上がっていた場が一気に静まった。それぞれ顔を見合わせ、なあ? みたいな顔をしたところで潮は納得しない。
ここL組では困った時に頼れるのは委員長ぐらいなもので、潮もそのことにはもう気がついている。よって、その視線は自ずと委員長の方向に向かった。
しかし、委員長もそうやすやすと意に反して頼られてばかりではない。このクラスに落とされるまで成績も生活態度(主にタバコだが)も悪かった時期がかつて彼にもあったのだ。普段は開きもしない携帯をいじるふりをして全力、全身全霊で無視している。ただ、そのあからさまな拒絶に大河内潮は気づかない生き物なので、効果はなかった。
永遠に送られ続ける熱い視線にとうとう委員長が折れた。頭をガリガリ掻き毟りながら委員長は席を立って、潮の前にまでやってきた。
クラスメイトのバカたちは安堵の声を漏らしながら、各々の席に散っていった。このクラスに悪い生徒はいないが、考えること、誰かに理解してもらえるよう話の順序を整えること、そういうことに頭を使うことが極端に苦手な生徒が多い。
「そろそろお前もこの学園に慣れろよ」
「うん? ……うん!」
「お前、絶対意味分からずに答えただろ」
「うん……」
委員長は大きなため息を一つ吐いた。
「あのさあ、お前にとったらただの同室者かもしれないけど、まじで四六って天才なんだよ」
へえ、と潮はぽかんと口を開いた。なにも分かっていない顔をしている。そのバカ面に、委員長はわざとらしくもう一度大きなため息をぶつけた。
さすがにこれは好意的ではないと感じとってか、潮も口をもごもごさせながら黙り込んだ。
「とにかく、あいつを普通扱いするのはやめろ。あれは特別で異常! エンジンがかかったあいつの邪魔は絶対にやってはいけないことだ」
潮の頭には疑問符ばかりが浮かぶ。
潮だって知らないわけではない。昨日と今日、禁止されていた四郎ヶ原の部屋に入ってしまった。そこに所狭しと飾られていた作品たちだけでも、なんとなく凄いということは分かる。
潮は絵などよく分からない。が、あれだけの数を誰に強制されているでもなく作り出している、その事実だけで潮は四郎ヶ原六美に並々ならぬものを感じた。
だが、胸にある違和感は大きい。
「天才は、学校に来なくてもいいのか?」
委員長は即座にそうだ、と答えた。
潮は見た目だけ不良な、大きな委員長を仰いだ。
「天才だから体育祭に出してもらえないのか? 天才だから授業出なくてもよくて、勉強もバカでよくて、みんなで六美を凄い凄いって褒めたたえて、心の底の闘争心を"あいつは天才だから"でなんとか丸め込もうとしていて、それでみんなで六美に嫉妬してる」
かっとなって怒った顔をした委員長だが、手は出してこなかった。彼はL組に落とされたわりには元々そんなに気性は荒くない。委員長は優しくて真面目だな、とこんな時だが潮は嬉しくなった。そんな委員長までもが六美を天才扱いするから、六美もこちら側に戻ってこれないのだ。
(ああ、いやな空気だ……)
さっきまで仲良く話していたクラスメイトの誰1人として目が合わない。みんなこちらの話を聞いているのに。純粋に気持ち悪いな、と思った。
「六美は確かに天才なのかもしれないけど、同じ年の高校生だぞ。みんなで六美を天才に押し上げてるから、六美もそれに応えなくちゃいけなくなってる」
しばらくすると「でもあいつは本物だ」と誰かが口火を切った。すると、一斉にその声に便乗して六美の特別さをそれぞれが説き始めた。
みんな一様に大きく頷いているし、潮もその意見は大いに賛成である。だがしかし、しかしだ。
「なあ、なんでそんなに妬んでるんだ?」
誰からも返事は返ってこない。
「なんでそんなに自分の力を諦めてる?」
教室内をぐるりと一周見回した。みんな俯いているし、委員長は絶句している。いつの間に入ってきていたのか教壇で名簿を持ったL組の担任が絶望感を漂わせながらぷるぷる震えていた。
潮は自分の体温が上がっていっていることをまるで他人事のように俯瞰していた。ああ、この感覚を知っている。
自分の実力以上のことをしている時、大きな熱の中に冷静な自分がいると感じる時があった。あれに似ている。
「六美はどこ」
予想よりも冷たい声が出た。
担任が静かに泣いている。もうむり、だからぼくなんかにL組はムリって言ったのに。こわい。ぶつぶつ小さな声で呟かれているその声も、静かな教室ではよく聞き取れた。
潮が1歩踏み出すと目の前を塞いでいた委員長は道を譲るようにして1歩横にずれた。それでも潮から目が離せない。
もじゃもじゃの髪に隠れているが、委員長には潮が今どんな目をしているかありありと見えていた。あの目だ。あの四郎ヶ原六美と同じ種類の、熱が渦巻く目だ。
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