沈殿した汚物
7
成海は村崎の遅い足取りにいつも合わせてくれる。現在進行形で船を漕いでいる村崎のありえないほど遅いスピードにも文句一つ言わなかった。そして相も変わらず村崎と成海の間に会話はない。
成海が一緒だと村崎は安心してのんびり歩ける。成海の青いリュックサックが村崎にはたとても重そうに映った。他のクラブ生が騒ぎながら横を通りすぎていく。成海と親しそうな奴らもいれば、違うクラブの生徒もいた。運動部の活動終了時間はどこもだいたい同じだ。
夜遅くなっても、学校から寮までの道のりには大量の電灯が設置されているので暗くはない。村崎たちは散ってしまった桜並木の横を通った。
(帰りたくない……)
覚醒しきれていない頭でそんなことを思う。
第2寮が見えてきた。寮はコの字型に建てられていて、学校から近い側が村崎の住む第2寮、奥を一般生徒用の第1寮、そしてそれらを繋ぐところに食堂や大浴場などの共同施設がある。
成海とは第2寮の前で別れた。成海はなにか勘付いているようで村崎の様子を伺う素振りを見せていたが、手を振ると振り返して去って行った。成海は余計なことは言わない。それが嬉しくもあり、たまにほんの少しだけ物足りなくもある。
部屋の前まで行って、村崎はどうしても決心がつかなかった。
見慣れたドアを前にしゃがみ込んだ。ああ、四郎ヶ原がいるかもしれないと思うだけでこんなにも怖い。唇を強く噛む。
いやだ、あの四郎ヶ原は嫌いだ。村崎の好きだった四郎ヶ原は消えてしまった。あの四郎ヶ原と同じ顔をした男に見られるのが嫌いだ。あいつはこちらを見ていない。
今日、四郎ヶ原は学校に行ったのだろうか。もしくは自分の部屋に帰ったのだろうか。自分のアトリエである第2美術室に籠ってるのだろうか。それとも、ずっとこの部屋に……
「なぁーにしてんの」
間延びした声と共に浮遊感が村崎を襲った。脇に手を入れられて持ち上げられているようだ。上を見上げると人を食ったような顔で笑う会計がいた。
痛みきった真っ黄色の髪を見つめる。にたにたと意地悪そうに笑っていなければその顔からは甘さが消え、ひどく知的になることを知っている者は少ない。
「相変わらずお前は喋らないね」
「そんなことないです」
そう言って視線を床に移した。
こんなふうに会計が村崎に構ってくるのは珍しい。
「肝心なことは喋らない」
帰りたくないならさ、俺の部屋くる?
一瞬迷って、村崎は首を縦に振った。
生徒会会計、権野秋風(ごんの あきかぜ)。
村崎は会計についての情報を反芻しようとしたが、金髪で話好き以外には情報を持っていなかった。
部屋に入ると会計の匂いがした。意外にもコロンなどの甘い匂いではなく、ば風と太陽の清々しい香りだ。
几帳面に靴は全て揃えられていた。しかも玄関には生け花を飾っている。村崎からすればそれが少し不思議だった。男子高校生が洒落たことをする。生き物のある空間は、なんとなく暖かい気がした。
「間取りはいっしょだから分かるでしょ? 適当に風呂は入ってーあと寝るとこだけどーーーーって、お前は飯食べた?」
食べてない。食べたくない。
黙りこくった村崎に一つ溜息を吐いた会計は、引き出しを開けて中から取り出したものを投げて寄こしてきた。村崎は運動神経がよろしくない。受け止められずに床に落ちた。黄色い箱にカロリーメイトと書かれている。
お茶と水と紅茶と珈琲ならどれがいい? とこれまた意外にも甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてくれるので「お構いなく」と返した。会計という男はどこまでも見た目を裏切る。
村崎の部屋にもあるリビングルームに、会計は机とソファとテレビを置いていた。肌触りのいいソファに村崎は三角座りをする。カロリーメイトは机に置いた。三角座りをするとなんとなく安全なような気持ちになる。
コトンという音が聞こえて首をもたげると湯気が立ち上る紅茶が置かれていた。会計はマグカップを片手にソファにもたれて立っている。村崎の隣に座るスペースはあったが、いささか距離感が近すぎるので気遣いにほっとした。村崎は意味もなく湯気を目で追った。
結局村崎はカロリーメイトには手をつけず、会計が手ずから入れてくれた紅茶にだけ手を伸ばした。暖かい……。紅茶をゆっくりゆっくり飲み干してから、すすめられるままに風呂に入った。
シャワーの前に座って、なんとなくお湯ではなく水を出した。水が触れた場所から急激に体温が奪われていった。季節的にも朝夜はまだ寒い。ただ、何かあると水をかぶるのは村崎の癖だ。
風呂から出ると、会計がソファに座って忙しなくノートパソコンを叩いていた。普段はつけていない眼鏡をしているのが新鮮だ。ぼーと突っ立っている村崎の視線に気づいた会計が顔を上げた。
「え」
なぜか驚いている。村崎は首を傾げると同時に自分の歯がガチガチうるさいことに気がついた。
「なにそれっ、くちびる青ッ!」
なんでもないです、と笑おうと思って失敗した。しかも歯が噛み合わないせいでまともに言葉も喋れなかった。なんだか無性に泣きたい気分だった。
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