沈殿した汚物
1
成海がリュックサックを背負って部屋を出ると、ちょうど同室者が向かいの部屋から出てきて鉢合わせになった。ごつい身体にいかつい顔のくせに上下きっちりとパジャマを着ているところがなんとなく笑いを誘う。
「おはよう、成海は早いな」
「そんなことないよ」
そう答える成海は、いつも体育館に一番乗りだ。あまり眠ることが得意でないせいで、朝は早くに目が覚める。前にそのことを話すと、村崎におまえは何歳だよ、とつっこまれた。
「じゃあ、先に行くね」
いってら、と洗面所の方向から声がした。成海と同室者の約束事はただ1つ。お互いに深く干渉しないこと。
目が自然に覚めるからといって、眠くないわけではない。欠伸を噛み殺しながら成海は部活に向かった。
◇
「成海」
茶色の瞳が成海を見上げてくる。
30センチほど身長が違うため、村崎は首をそこそこに目だけで見上げてくることが多い。上目遣いがいいとは言わないが、自分を見てくれていると分かるそのポーズになんとなく満足感を覚える。
パッと見、村崎に異常はない。今の時期にしては少々暑そうなカーディガンを羽織っているいつもの村崎だ。
「なにかあった?」
「うーん、ちょっと」
朝、村崎は少し遅れて教室に着いた。すでに担任は来ており、しれっとした顔で前の扉から入って来た村崎に怒っていたかと思うとなぜか突然勢いが萎み、体調が悪いのかと1人でオロオロしだした。
村崎の顔色は至って普通だったし、元々元気いっぱいとは程遠い性格の持ち主である村崎の異変に気づいたあたり、あの担任はどこか動物的直感が優れているのかもしれない。
「四郎ヶ原となにかあった?」とは成海も聞かない。
もうすぐ1時間目の授業が始まる。1時間目は英語だ。村崎は成海の前の席に座って動こうとしない。四郎ヶ原となにかあった後、村崎はこうしていつもより成海から離れなくなる。
村崎が机の上で腕を組んで頬をあてた。その触り心地のよさそうな黒髪に手を伸ばしそうになって止める。そういうことをするのは自分たちの関係ではない。
「ねえ、むらさき」
億劫そうに目が合わさった。
「1時間目サボろうか」
小さな頭が微かに頷いた。
隣の席の生徒がギョッとした顔で成海を見てきたが気づかないふりをした。普段真面目な分、たまにはサボってもいいだろう。
2人ともカバンを置いて教室を出た。ひと気のない廊下を選んで、ゆっくり歩いた。
たぶん2時間目には戻ってくる。2時間目は漢文の授業で、村崎が気に入っている教師の持つ科目だからだ。人好きの良さそうな穏やかな笑みを浮かべるあの教師は、村崎が懐く条件を十二分に持っている。いつからだったか、村崎が年の離れた優しそうな男性に弱いと知ったのは。
「むらさきって、将来はお金持ちのおじさんと付き合ってそうだよね」
「なんでだよ」
しばらくしたあと、成海は世間知らずの年下のお嬢様と結婚してそう。と、村崎が笑った。笑顔が思ったよりもいつも通りで、少しだけ安心した。
村崎は小さいので、一緒の時は歩幅に留意しなければならない。
春先の朗らかな天気がこれからの夏を想像させて嫌になる。成海は暑いのが嫌いだ。実を言うと村崎のカーディガンも信じられない。汗をかきにくい体質のせいで体温調節が上手く働かないらしい。そのせいで爽やかとか称されるのだけど。
村崎を見ると、窓の外に視線を向けながら歩いていた。
村崎と成海はあまり会話が弾まない方だと思う。四郎ヶ原なんかは、沈黙が重いといって常に会話が飛び交っていなければ気が済まない。吉武も皆で喋るのが好きなようだ。薫のことは、よく分からない。
「沈黙の春ってさ」
「ん?」
相変わらず村崎の視線の先は窓の外のままだった。
「読んだことはないけど、題名だけでその異常さが分かって凄いよな」
「そうかな」
あ、こっちを見た。
「そうだよ。今、鳴いてるスズメも、葉桜についてる大量の毛虫も、タンポポにとまっているてんとう虫も、蜜を探して飛び回ってる蜂も、全部いない。もしかしたら人間もいないのかもしれない」
それはそれで静かでいい。
「いっ!」
成海の手の甲を村崎がつねっていた。
「顔が怖い。成海のファンって成海のどこがいいんだろうな」
「本人の前で言うセリフじゃないね」
ぷっ、と村崎が吹き出した。そりゃそうかごめんごめんと謝りながらも顔の筋肉は緩んでいる。成海の眉間にシワが寄った。
「なに?」
「今朝、おれも同じようはこと言ったなーって」
「誰に?」
「えーと、あー、川? と、塩? なんか川と海が一緒になった名前の奴」
楽しそうな村崎を尻目に、成海は急激に体温が下がっていくのを感じた。今、たぶんさっきよりも格段に冷たい顔をしている。咄嗟に手で顔の半分を隠した。
村崎は既に、窓の外に関心を戻している。
2人だけの特有な静かな空気の中、どろどろの感情が成海の腹の底から湧いてきた。なんだろうこれは。何に対しての怒りなのだろうか。
こんな汚い姿を村崎に見られなくてよかった。吉武に言わせれば、成海は村崎を神聖化しすぎるきらいがある。
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