[携帯モード] [URL送信]

沈殿した汚物
9


四郎ヶ原に追い詰められていない時はない。それは、ある一定の間隔で作品を創らなければ芸術特待生は自主退学を勧められるという決まりがあるからだ。

四郎ヶ原が今までに提出した作品は計2つ。過去に出した作品がずば抜けて高評価を得た作品でなければとっくの昔に退学になっている異例の少なさだ。去年の夏が最後の提出なので、そろそろ学園側も次の作品が欲しい頃だろう。こうして会長が直々に確認をしに来るということは、学園側からなにかしらの指示があったのかもしれない。

だが、その提出をしない長い長い期間、学園側や他の生徒が想像しているようになにも四郎ヶ原はサボっているというわけではないのだ。描いてはいる。しかしそれらはどうも試し描きというか、本人にとっては申告する価値もないようなものらしい。……と村崎は思っている。だからこうして勝手に飾っているのだ。

ほう、と会長がため息に似た感嘆を漏らした。

骨張った長い指がまた違う絵に近づいていく。決して絵の具の部分は触れず、神経質に額縁をなぞった。

うっとりした表情とは裏腹に滅多に動くことのない会長の目の周りの筋肉が泣きそうに歪んでいる。形のいい唇からポツリとこぼれた。


「これだけあって、なぜ申告しない」


仰ぎ見る。会長は、真面目な顔をして数多ある作品たちに目を奪われていた。どうやらふざけているわけではないらしい。


(なぜ、って……)


そんなの、決まっている。

会長とは打って変わって村崎はなんの躊躇もなく絵の具の塊を指の腹で撫でた。荒々しいタッチで描かれた絵の具がチクチク肌に刺さる。繊細で、筆あとが残らない描き方をする世界的に有名な四郎ヶ原とは別人のようだ。


「会長、四郎ヶ原にもプライドはありますよ」


会長は瞠目した後、目をつむった。


「未完成のものを人に見せるのは恥です」


会長の表情はピクリとも動いていないのに、静かに目を閉じるその顔が村崎には泣いているように見えた。

桜ノ宮学園第98期生徒会会長、美形が多いこの学園で最も美しい男と称される山路悠人は、自他ともに認める芸術好きだ。特に音楽を好んではいるが、オペラに始まりバレエも演劇も絵も好きだし、果てにはサーカスまでもがその心を揺さぶる。つまり彼は文化の匂いがするものにすこぶる弱い。

芸術を愛し、芸術に愛されなかった男だ。


「……だんだん分からなくなってきた」


瞼が持ち上がって、黒々とした美しい目玉が現れた。ベタな賛辞を送るなら水に濡れた黒曜石だ。


「はあ」


村崎が生返事を返した。会長は咎めなかったが、親衛隊がいたならどうなったかわからない適当な返事である。


「俺はどんな作品でも置いておきたくなるし、人に見せてみたくもなる。どんなものであれ思い入れがあって、それを無視して捨てるのは容易ではない。……たぶんこれがダメなんだろうなあ」


芸術家とはある種冷酷な生き物なのかもしれない。会長は視線を逸らしながら歯切れ悪く口の中でモゴモゴ呟いた。あまりに普段の堂々とした会長らしくない姿だ。

会長は、自分の手の平を見下ろした。他人を、自分を感動させるものを創れないこの手に何度絶望したことだろう。

一呼吸置いてから、顔を上げた。
静かな表情だな、と村崎は思った。


「ああ、分かった。きみは四郎ヶ原が好きなんだね」


その言葉に迷いはなかった。


「会長は四郎ヶ原が嫌いなんですね」


村崎も断定すると、会長は片方の唇を上げおどけてみせた。


「妬みだ」

「天才と比べるべきではないです」

「それは天才に追いつけない言い訳でしかないだろう」


今度は自嘲気味に笑った。


「四郎ヶ原が本格的に自主退学に追い込まれた時、俺はこの部屋の作品をなんとしてでも学園側に提出する。きみにはそのことを知っていてほしい」


瞬時に村崎は会長の持つゴールドカードを思い浮かべた。知っていてほしい、ということは村崎がなんと返事をしても勝手に入って取って行くということなのだろう。

ゴールドカードとは生徒会長と風紀委員長だけが持つ学園内ならどこの扉も開けられる魔法のカードだ。私的に使った時の処罰は大きいと聞く。

だが、しかし。
ふっ、と笑う。そんなことは杞憂に終わるだろう。


「間に合いますよ」


そう言った村崎の頭には先ほどの四郎ヶ原がいた。あの半笑いでギラギラと光る目を持ち、瞬きが極端に少ない四郎ヶ原だ。頭を殴られ、今はリビングのソファまで運ばれ寝かされている。


「俺もそう思う。保険だ、もしもの」


芸術を志す者からすれば、あの才能を近くで見れるというのは地獄ではあるが同じぐらい幸福でもあるのかもしれない。


「あの絵」


村崎の指がベット頭上部分の壁に掛けてあった1枚の絵を差した。


「あれ以外なら、どうぞ」


会長は言われてみてハッとした。なぜ、今までこの絵に気づかなかったのだろう。

美しい絵だ。鼻筋の通った横顔が逆光の中でこちらを見ている。暖色がほとんど使われていないせいで他の鮮やかな絵たちに埋れていたが、この数多ある作品の中でもびっくりするほど高い完成度を誇っている。会長はどうして真っ先にこの絵に目が行かなかったのか己が不思議でならなくなった。


(……村崎、か?)


逆光のせいで顔のパーツはハッキリ描かれていないが、そう思った。

たかだか数十分ではあるが、会長が村崎ゆうとと共に過ごした感想は、特徴はないくせにどこか村崎は美しいということだ。





[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!