沈殿した汚物
2
「えー?」
という村崎の呟きは喧騒に打ち消された。
もじゃもじゃ頭のお相手はてっきりさっきのメガネの青年だと思ったのだが、身長からして明らかに違う。キョロキョロ目を動かすと、真っ青な顔で呆気にとられている四郎ヶ原の隣に、同じく微動だにしないメガネの青年が驚愕の顔で立っていた。
それにしても、
村崎は現在進行形でキスをかましてる2人に視線を戻した。他人のキスを見たことがないからなんとも言えないが、それにしても長いのではないだろうか。
あのさっきまで元気だったもじゃもじゃ頭がカッチンコッチンに固まっている。お相手は美形も美形だ。
もじゃもじゃ頭の唇を奪っていた美形の男がやっと離れた。つやつやの黒髪に黒曜石のような目が特徴的で、顔のつくりがやたらと整った息を飲む美形だ。かっこいいとかかわいいとかではなく、美しいという言葉がよく似合う。初等部からずっと生徒会長を勤めている先輩なので村崎にも見覚えがあった。第2寮で何回かすれ違ったこともある。最近では神がかった美しさにますます磨きがかかってきていて、どうにもこうにも近寄りがたい印象があった人だ。
「気に入った」
会長が静かに笑う。ヒュッと空気を吸い込む音が隅々から聞こえた。へたり込む生徒までいる始末だ。特に近場で目の当たりにした生徒が甚大な被害にあっている。
もはや悲鳴すら上がらない。大勢の生徒が集う食堂は異様な静寂に包まれていた。
「う……」
もじゃもじゃ頭が口を押さえ、よろめいた。場の空気がやっと動き始めた。
ハッといちはやく正気を取り戻したメガネの青年が「潮!」ともじゃもじゃ頭に駆け寄った。
「大丈夫ですか……?」
もじゃもじゃ頭から返事はない。
「うげえええ……」
その代わり、崩れ落ちるように嘔吐した。
ゲエゲエと吐き出し、出すものがなくなって胃液だけになってもなお吐き続けている。何度も何度もえずくその姿に自分まで気持ち悪くなってきたらしい生徒が伝染のように口元を押さえた会長はびっくりしているし、メガネの青年もただひたすらにオロオロするだけだ。
四郎ヶ原だけが唯一爛々と輝く目でもじゃもじゃ頭が吐く様を観察していた。さっきまでの青い顔はどこへやら、嫌な方の四郎ヶ原が顔を出してきている。こちらの四郎ヶ原を近頃ではよく見かけるようになった。あの小さな頭の中で、今、いったい何が作られているのだろう。
急に寒気がした。カーディガンの裾を握る。
成海が「むらさき?」と言ってきたが返事ができなかった。
メガネの青年がおそるおそるといった様子でもじゃもじゃ頭の背をさすりだした。不器用な手つきだ。何度も吐いて相当辛いのかもじゃもじゃ頭の息は荒い。
もじゃもじゃ頭が汚れた口元を袖で拭おうとしたのを見て、慌ててメガネの青年がハンカチを差し出していた。
「そんなに嫌だったか?」
そのあまりの哀れな様を見て、会長が少しだけ眉尻を下げた。下手したら吐いているもじゃもじゃ頭よりも悲壮感が漂っている。整った顔の力というものは凄い。
そんな会長の様子にはお構いなしで、もじゃもじゃ頭は勢いよく首を縦に振った。会長がますます眉に角度をつけ下げでいく。大衆とは現金なもので、観衆から途端にブーイングが起こった。
「すまない。俺はずっとファンだったのだが、本物を近くで見るとより魅力的でつい勢い余ってしまった」
「え」
「一昨年の冬の講演では感動した。よければサインと握手をしてほしい」
「え」
「まずは友だちから始めてはくれないだろうか」
「ええっ」
「嫌、か?」
悲しそうに顔を歪める会長に、もじゃもじゃ頭は反射のように首を振って否定していた。本人はまだ状況が飲み込めていなさそうな顔つきだ。
知ってか知らずか会長は自分の美しさをこれでもかと言うほど最大の武器に利用している。あの顔で言われたら思考も鈍るというものだ。
もじゃもじゃ頭の回答に会長がふんわり笑った。そのあまりの眩しさにまたしてもへたり込む生徒が続出した。鼻を押さえている生徒も中にはいる。近場からやられていくので騒動の中心はクレーターのようになった。コントか、とこれには村崎も驚かされる。
心なしかご機嫌な会長は近くの席にあった筆箱を勝手に開け、マジックを取り出した。いつになくきらきらした黒曜石のような目にマジックを渡され、ついつい受け取ってしまうもじゃもじゃ頭。
ここに書いてくれ。と会長はカッターシャツをズボンから抜き取り、もじゃもじゃ頭の前に差し出した。え、え、と目がぐるぐる渦を巻いているもじゃもじゃ頭が、訳も分からずマジックの蓋を外した。
今まさにそのマジックが会長の白いシャツを汚そうとした時、細っそりした白い手がもじゃもじゃ頭の腕をがしっと掴んで止めた。
「ちょっと会長! 正気ですか?!」
メガネの青年が思わず取り乱すほど慌てている。パッともじゃもじゃ頭から手を離し、会長に掴みかかった。身長の違いからか迫力はないが勢いだけはあった。というか、さっきまでもじゃもじゃ頭に気がありそうだったのに、今はそれどころではなさそうだ。
「? 俺がなにかおかしなことをしたか?」
「あなたそんなキャラじゃないでしょ?! もっとこう、ほら、無表情、無感情で視線だけで人を動かすタイプじゃないですか!」
「どうしたんですか会長っ!」そう言って好青年は会長の肩を乱暴に揺すった。そんな青年に「お前、俺のことをそんなふうに思っていたのか……」と会長はちょっぴり傷ついた顔をしている。
いつも壇上で堂々堂々とマイクを持つ姿よりも随分幼くて、この人もちゃんと高校生だったのだと村崎は会長に対する認識を改めた。
「そんなことより大河内くん、サインを」
「は、はいっ!」
キャップを外したままうろうろしていたマジックがようやく到着点にたどり着いた。白のワイシャツに黒い染みができていくのを野次馬たちが一斉に「あああぁぁぁ」と悲惨な声で嘆く。唯一、会長だけが満足そうな顔で腕を組みながら頷いていた。
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