沈殿した汚物
2
村崎ゆうとはそれほど優秀ではなく、目立った特徴もないくせに、それでいて人の目を引く不思議な人物だ。
協調性がない村崎を、歴代の担任はいつも扱いづらい生徒として厄介に思っていた。
入学早々、1週間も教室に現れない村崎に担任は教壇の上でぶるぶると怒りに震えていた。まだ、まだ体調が悪いと言い訳するならかわいいものだ。なのに村崎といえば、昼は仲のいい成海と食堂に現れ、放課後は図書室の受付として出没する。舐めくさってるとしか思えない。
中等部の教師陣から要注意人物として話を聞いてはいたが、まさかこれほどのものとは。あれだけ見た目は大人しそうなのに。
担任にとっては、この学園にも少数いる不良と呼ばれる人種よりも、なんの反抗の色も写さず、たいした不満も口にしない村崎の方が断然厄介だった。日中、学園の外に出ているという噂もある。村崎が教室に来ない理由が分からない以上、対処の仕方も分からなかった。
「成海! 村崎は今日も来ないのか!?」
「さあ」
「おまえら友だちだろ!」
「まあ、はい。でも先生、むらさきですし」
「くっっそう……!!」
まだ若いのに大変そうな担任を目の端に、成海は高等部に入学をしてから一度も座られていない村崎の席を見た。成海の列の一番前が村崎の席だ。配布物や新しい教科書が山のように積まれている。
授業中にも関わらずうなだれている担任に、苦情よりも同情の声が多く上がっていた。たぶん担任がイケメンで、黙っていればホストのような見た目をしているからだと思われる。この学園は顔の良い人間に甘い。
成海はいい事を思いついた。
中等部とは違って、高等部には留年制度がある。このまま村崎の出席日数が危うくなるのは成海もなんとかしたいと思っていたのだ。
「先生、国語の先生ですよね?」
「だからこうしておまえらは国語の教科書を開いてんだろ!」
涙目でドンと教卓を叩く。
「いい方法がありますよ、上手くいけばむらさきが来ますね。それもたいそう喜んで」
爽やかに笑う成海の後ろに後光が見えたと、後に担任は言う。
◇
私立桜ノ宮学園。
その名の由来になるほど学園中に桜の木が大量に植えられている。春になれば学園はピンクに染まり、遠くから見れば学園内だけやたらピンクなその光景は滑稽ですらある。密かに地域の名物にもなっているのだが、生徒たちにはあまり知られてはいない。有り体に言えば、若い彼らは桜などに興味がないのだ。
田舎の山の上にあるこの学園は、桜もそうだが、その他多くの植物にも恵まれている。そしてまた、残念なことに虫にも恵まれていた。
肌寒い春の朝、村崎は桜並木の近くをのんびりと歩いていた。
大量の花びらが無惨に踏みつけられ、土が滲んでいる。本当は桜の真下を歩きたい村崎だったが、毛虫が大量にぶら下がっている中、ゆっくり花見なんてできそうにないと諦めた。残念そうに桜を見つめる村崎の周りには、人っ子一人いない。
桜といえば死体。この前、図書室の受付をしながら読んだ小説だ。首を強請る絶世の美女。この立ち並ぶ満開の桜の木に、恐怖する。
おれは怖いとまでは思わないけど。でも、なんだろう。そうだなあ。うん、ちょっと、怪しい感じ……。
そんなことを胸中で思いながら、桜並木を村崎は見つめた。
午前5時00分。部活生すらいない寮から校舎までの道のりに、村崎の姿だけがポツリとあった。
普段の村崎はこんなに朝早くから行動する質でもない。どちらかと言えば寝汚い部類だ。夜型生活を続けているうちに回りに回って、健康的な生活に戻ってきてしまったのだ。
この桃色の花が今週が見ごろと聞いて、ついふらふらやって来てしまった。村崎は季節をより強く感じさせるのものが好きだ。
「桜の森の、満開の下」
村崎が立ち止まり、見上げた先には花を一つもつけていない桜の木があった。
私立桜ノ宮学園の高等部寮から校舎にかけての道のりに、1本だけ咲かない桜がある。会談話のネタになっておもしろおかしく語り継がれている木だ。ぷつりと止切れるピンク色に、やっと一息つけた。どうやら桜の艶やかな美しさは、人を緊張させる効果があるらしい。
この行き道を防ぐ毛虫さえいなければ、もっと咲かない桜の木に近づきたいと思った。
「あ」
村崎の視線の先で、枝に紙がくくりつけられていた。薄い紙質なので和紙かもしれない。薄紫の美しい紙だ。
村崎は黒のカーディガンの袖を引っ張ったりカッターシャツのボタンをきっちりと締めたりと、肌の露出をできるだけ減らした。背中に背負っていたカバンを頭上に配置し、花の咲かない桜の木へといざ近づく。
枝からひったくると急いで戻ってきた。村崎にしては珍しく俊敏に動いた方だろう。まず全身に毛虫が張り付いていないかをザッと確認し、その次に、手の平の中の薄紫の和紙を丁寧に開いた。
ひさかたの 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ
ふ、と笑みがこぼれる。
風情あることをする人もいたものだ。しばらく見つめていると違う文字が透けているのに気がついた。ずらしてみると二枚重ねになっていた。
来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
焼くや藻塩の 身もこがれつつ
あなたの師より、むらさきの君へ
これは、面白いことをする。こんなおれ好みのことをするなんて。提案は成海だろうか。
なんだか楽しくなってきた。村崎は和紙のしわをきっちり伸ばし、もう一度紙に目を落とした。唇を音に合わせ動かしていく。
ひさかたの、ひかりのどけき、はるのひに、しづごころなく、はなのちるらむ
こぬひとの、まつほのうらの、ゆうなぎに、やくやもしおの、みもこがれつつ
美しいリズムだ。なんとなくしっくりくる。日本人だからだろうか。あなたの師より、なんて。むらさきの君というのは、おそらく村崎で間違いない。
この几帳面な字の持ち主は女の人だろうか。ここは女の先生が極端に少ないので、やはり男性だろうか。字に真摯なのがよく伝わってくる。若いのか、年増なのか。どんな人だろう。この綺麗な薄紫の和紙を選んだ人は。
村崎は久しぶりにわくわくしていた。
図書室に直行して昼までいるつもりだった村崎だが、そんなわけにもいかなくなってきた。軽い足取りで教室に向かう。まだ開いていない校舎の前で、教頭が鍵を持って現れるのを待った。
現在、午前5時10分。
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