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沈殿した汚物
1


ゆうと、と呼ばれた気がして村崎は顔を上げた。必死の声色に思わず反応してしまったが、あいにく村崎を「ゆうと」などと呼ぶ人間はこの学園には存在しない。

顔を上げた先には人だかりができていた。村崎と一緒に食堂に来ていた友人が、だぼだぼの村崎のカーディガンの裾を引っ張ってくる。そちらを見ると、友人は渋い顔をして左右に首を振っていた。関わるなと言うことか。心配性なこの友人らしい。村崎は再びうどんに向き直った。


「むらさき」

「なに」


うどんから意識をそらさずに返事をした。


「うどん、おいしい?」


しばし、止まる。ちらりと友人の前に置かれているカツ丼を目に入れた。そちらの方が断然美味しそうだ。


「この味なら、もっと安くていいと思う」


そう、と友人が笑った気配がした。

出汁を大量に残した器を置いて、村崎はくっと上に伸びた。腹もそこそこに膨れ、眠くなってくる。隣に座る友人がまだ食べ終わりそうにないのを確認すると、先ほどからなにやら騒ぎが起こっている方向に頬杖をつきながら関心を向けた。

「ゆうと」と度々聞こえてくる。
この隣の友人とは中等部に上がってから現在まで仲良くやっているが、それでも「むらさき」だ。初等部から付き合いのある他の友だちにも村崎は名前を呼ばれることはない。本人がわざわざ拒否しているわけでもなく、なんとなくそうなっていた。しかも、このカツ丼を食べている友人に至っては村崎ではなく紫色の「むらさき」の発音に似せているのはどうしてなのだろう。

まあ、どうでもいいか。村崎はそう結論付けると目を閉じた。

ゆうと、ゆうと、誰にも呼ばれない名前というのはこんなにも他人のように聞こえるものなのか。確かに他人のゆうと君なのだけど。

目を瞑ると、椅子を引く音と食事をする音、話し声がだだっ広い食堂内に無数に存在していて、雑音がほどよく心地よい。特別席というものが2階に設けられているせいで天井が高く、おかげで開放感があるこの食堂という場所を、村崎は密かに気に入っていた。

どうやら件のゆうと君は騒ぎの中心にいるらしい。黄色い声援付きで名前を呼ばれている。甲高い声が食堂中に響いていて、凄まじい。男子校なのだが。

村崎がぱちっと目を開けた。

まっすぐ人だかりを見つめる村崎を見て、友人は彼が本格的に興味を持ち始めたことに気がついた。


「成海、すごいな、あれ、なんの騒ぎかな」

「生徒会でしょ。むらさきは自分が食べ終わったからって一人であの中突っ込んでかないでよ、ちょっと待って」

「うん」


成海はカツ丼を掻き込むペースを速めた。成海も食べるのが遅いわけではないのだが、カツ丼ご飯大盛りとうどんではどうしても時間に差ができてしまう。

そわそわしている村崎の黒いカーディガンを引っ張ったりして諌めてはいるが、いったいどれほどの効果があるのか実行している成海にも分からない。

村崎がおもむろに立ち上がるのと成海がタレの浸った米粒をかき込み終わったのはほぼ同時だった。

村崎は、己の腕を掴む成海が水を勢いよくあおる様を眺めた。急ぎすぎて口端から喉元に一筋垂れている。水の走る先を目で追った。不潔に感じないのは、きっと成海がイケメンだからなのだろう。

立ち上がった成海が村崎を見下ろしてきた。村崎は小さい方だが成海は大きい方だ。コンプレックスと言うほどのものでもないが、こうして成海を見上げる度に、村崎は少し羨ましいと思う。


「行こう」

「ん」


一緒に行くと言っても、成海は少し離れた場所で立って見守るだけだった。村崎は単独で騒ぎの集団に突っ込んで行くも、なかなか前列は取れそうになかった。

突破口を探して右往左往していた村崎は数分の格闘の末、諦めた。大人しく成海の元に戻って来る。成海は大きいので遠くからでもよく目立った。


「ダメだった」

「見てた、むらさきより小さい子に突き飛ばされてたね」

「そうだっけ」

「うん、そうだった」


尻餅ついてたくせに、と笑われる。


「成海は見えてるだろ」


成海はこの集団の中でも飛び抜けて大きい。スポーツの特待生でこの学園にやってきた成海は、中等部の頃からすでに並みの大人よりは大きかった。しかも本人曰く、まだ伸びているらしい。

切れ長の瞳が騒動の中心を凝視する。スッと細まった目は、村崎には冷たさをたたえているように見えた。たまに成海はこうやって冷たい顔をするんだよなあ、とぼんやり思う。

その顔がなかなか戻らなくて、村崎は仕方なく成海の足を踏んづけた。


「いっ……!」

「顔怖い。親衛隊に幻滅されるぞ」


その前におれが嫌がらせをされそうだ。と、村崎は心の中で思った。自分よりも小さく、可愛らしい顔をした成海の親衛隊隊長が、怒り狂う姿が容易に想像できた。


「で、あれはなに起こってんの」


成海は答えない。
無言の時間が続く。長引くに連れ、村崎は次第にこの騒動への興味が薄れていくのを感じた。
ーーーーもう、どうでもいい。


「行くか」


くるりと背中を向け歩きだす村崎の後ろを、成海はゆっくりとついて行った。





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あきゅろす。
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