その他小説 雨ふり烏の長い髪 中 (HQ:黒日) 試合の時は勢いよく飛び立つ烏そのものだと思ったのに、布団に寝そべる日向は猫のようだった。 「翔陽、起きろ。朝飯できたぞー」 「…うんー…」 寝ぼけ眼のまま、ゆらりと起き上がって机に脛をぶつけて悶絶する日向を、黒尾は笑った。 ハムエッグをつつきながら、黒尾は日向に話を向ける。 「今日大学行くけど、お前はどうするよ?」 「オレはー…公園でバレーしてる」 「そうか、じゃあ鍵渡しとく。一つしかないから無くすなよ」 「うん」 嘘だった。黒尾はスペアキーを持っていたが、自分の不在中に日向がいなくならないように念を押したのだ。黒尾のアパートは新聞受けが郵便受けの役目も担っているから、鍵を中にいれると外からは取り出せない。こう言えば、元々悪いことの出来る人間ではない日向は鍵を持ったまま何処かに消えたり、ドアを開けっ放しで消えたりなんて出来ないだろう。所詮気休めだが、何もしないよりはマシだ。 「…オレも講義終わったら公園行くからバレーしようぜ」 黒尾の何気ない提案に日向は勢いよく首を振った。パンくずが唇の端についているが気が付かないようだ。 「いい!講義終わったら、その辺散歩しよ。オレ、クロがいないと迷子になるし」 「そうか?わかった」 取り乱した日向を安心させるように頭を撫でてやると、日向はこくこく頷いた。その動きに合わせて長い髪がゆらゆら揺れる。 今日も黒尾は日向の髪を切ってみた。日向は意味がないとむくれていたが、黒尾が嬉々としてハサミを掴んでいるので断れなかったらしい。大人しくしていた。黒尾とて無駄であることはわかっていたが、日向の髪を切る行為に必要性を感じていたのだ。一日一回元の姿に戻さないとダメなような。 しかし切っても切っても、やはり髪は伸びた。 不思議だなと思いながら、黒尾は掌で橙色の髪を遊ばせる。飴細工のように甘そうな色。 「クロ、今日はサークルある?遅くなる?」 「あるけど…お前が行くなって言うなら行かない」 黒尾がニヤニヤしながら日向を伺うと、日向はぶすくれていて。 「言わねーよ。でも…」 後半になると視線を泳がせて、ゴニョゴニョ。 「……ちゃんと帰って来て…ほしい…」 なんて可愛いことを言うもんだから。 危うくまた大学をサボろうかと思った。レポートの締め切り日でなかったら、間違いなくサボっていただろう。黒尾は名残惜し気に自宅を後にすることとなった。 「いってらっしゃい」 「おう…いってきます」 胸の内が光が当たったように温かくなった気がした。こんな些細なやりとりが堪らなく幸せだった。 * 同じ大学、同じサークルに通う夜久にしばらくはサークルに出れない旨を伝えると夜久は少し目を見張ったが、こともなげに頷いた。 「どうした?何かあったのか?」 「まぁな」 黒尾も夜久もまだバレーを続けている。 流石に高校の時ほどの情熱はなかったが、それでも生活の一部に置いておくほどにバレーを愛していた。 夜久はそんなにうるさい奴ではないが、詮索される前に次の講義の教室に移動した。 黒尾が入って数秒後に白髪の教授が入ってくる。講義に耳を傾けながらも、黒尾は考える。 日向翔陽は一体何を隠しているのだろう。 それがバレーに関係することであるのは疑いようもない。 そもそもおかしな話なのだ。あの日向翔陽が部活を休んでいる。それもおそらく無断で。それだけで日向に何かしら異変があることだけは確実だ。そしてそれは髪が伸びるという奇病以外の異変であると、黒尾は当たりを付ける。 確かにこんな奇病を患っていると、それだけで周囲からの偏見や差別の対象になり得るだろう。しかし日向がそれに屈して部活を休んだり、バレーの練習を怠るとは考えにくい。それに部活の人間だって、日向が変な目で見られたら必死で守ろうとするだろう。 では、他に日向に何があったのだろう? いくら考えてもわからなかった。ノートは真っ白で、気が付くと講義の終了を知らせる鐘が遠くで鳴っていた。 教授が教室を後にすると、見計らったように黒尾のケータイが鳴った。発信者は孤爪研磨。 「研磨か?どうしたよ」 「クロ?実はさ、翔陽がいなくなったらしいんだ」 「なんだって?」 精一杯驚いたふりをした。 「親とメールのやりとりはしてるらしいけど、電話には出ないらしい。日曜日にふらっと出て行って、それきり帰って来てないらしいよ。クロ、なんか知らない?」 孤爪の声は焦燥や不安や心配が入り混じっていた。当然だ、孤爪も黒尾同様、日向が好きなのだから。 本気で心配をしている孤爪の懸念を振り払ってやりたいという気持ちがないわけではなかったが、黒尾はこの件については引くつもりはなかった。 「知らない。てか、いなくなったことも知らなかった。夜久にも聞いてみるわ」 罪悪感がじわりと滲み出したが、気付かないふりをした。 「…うん、お願い」 「あれか、なんか親や仲間と喧嘩でもして、家出したとかそんな感じなのか」 それとなく探りを入れてみる。黒尾にとっても不明なことが多すぎる。 「いや、部活の仲間と争ってなんかなかったし、家族仲も良好だったらしいよ…だから誘拐でもされてるんじゃないかって…」 「誘拐」 言い得て妙だ。 「まぁ、それはないと思うけど……翔陽が自分から望んで部活に出ないっていうのは考えずらいよね。翔陽、バレーしてないと死んじゃうし…」 「そうだな…」 それから音駒高校排球部の様子などを軽く聞いて、通話を切った。そして壁に寄りかかったままケータイを眺めた。 バレたかもな。 並みならぬ洞察力と観察眼を持つ孤爪は、黒尾に対して違和感を持ったかも知れない。特に好きな相手が行方不明となれば過敏にもなるだろう。黒尾は人知れず溜め息をついた。 * 日向が黒尾の部屋で寝泊まりして5日経った。 始めこそ、純粋に幸福のみを噛み締めていた黒尾だったが、今では単純にそうは思えなくなっていた。 日向が弱っていたからだ。 養分が足りず、萎れていく植物のように日向は生気を失っていく。今、ベッドに座る黒尾の膝に頭を乗せながら、寝そべって映画を黙って観ている日向は初日以上に無気力で、軽薄で儚げだった。今の日向なら黒尾が迫ってあまり驚かず、あっさり身体を開いてしまうんじゃないかと思えるほどだった。 しかし、黒尾は日向に何もしない。 弱っている時を狙うような卑怯な真似は出来なかったのだ。 黒尾鉄郎は言うまでもなく、本気になったものだけには誠実で真摯な男だった。 スポーツでも、人でも。 日向の髪を撫でながら、それでもと、黒尾は思う。 いつまでも日向はここには居れないだろう。近い内に日向は宮城に帰ることになる。しかし、願わくば最後に一度だけ日向の笑顔が見たかった。あのバレーをしている最中の、水を得た魚のようにいきいきとした日向の笑顔。 例え、この部屋を出ていくことに繋がってしまったとしても、日向の笑顔が見れるなら構わないと、黒尾はそう思えるようになってきていた。 しかし日向は頑なにバレーを拒絶する。 もはや隠しもしない。 なんとなく気付いていたが、3日目に公園にバレーをしに行くと言ったのも、やはり嘘だった。日向はボールに触ることすらしなかった。 覇気のない日向の髪を優しくすく。そしてその横顔に黒尾は問いかける。心の中で。 なぁ、何で髪が伸びるのか、お前は本当はわかっているんじゃないのか翔陽? なぁ、何でバレーをしないんだ? なぁ、何で宮城に帰らない? なぁ………何がそんなにお前を苦しめてんだ?? 「クロはさ」 黒尾はびくりと、身体を強張らせた。胸の内の問いに日向が答え返したのかと思ったからだ。 「何だよ?」 テレビは古い恋愛映画を流している。主人公の女性が愛する男の裏切りを知って、男に銃口を向けているシーンだ。 「心の底から何かを憎んだことある?」 「……いや、多分ないな」 「…そっか」 「お前はあるのか」 「あるよ」 思いかけず即答だった。黒尾は日向の横顔を見下ろした。日向は映画から視線を外さない。 黒尾は意外だと感じる。この陽光に当たっている子供は憎悪や怨嗟などの人間の醜悪な部分とは無縁だとばかり思っていた。 「…何を憎んだんだよ?」 「…………」 日向は答えなかった。 テレビから銃声が聞こえた。女が、愛する男に向かって、引き金を引いていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |