その他小説 雨ふり烏の長い髪 上 (HQ:黒日) 好きなものが落ちてたら誰だって拾うだろう。 例えそれが人だったとしても。 黒尾鉄朗がそれを拾った理由を問われたら、開き直るようにそう答えるだろう。 本当に一切の淀みもなく、一瞬の迷いもなく、一時の出来心でもない。 本当にそれだけの理由しかなかった。 * 雨が降っていた。強くとは言わないが、傘を挿さずには瞼を上げることは叶わないほどの雨だった。天候など特に影響なく人が犇めく東京の街を黒尾は自宅に帰る為に歩いていた。 あぁ、今日は厄日だと、黒尾は一人舌打ちした。 わざわざこんな雨の中、どうでもいい女の為に映画に付き合ったというのにその関心の無さがバレたのか、怒鳴り散らして帰られた。まぁ、いいかと他の女をナンパしてラブホに雪崩れ込んで、一緒にホテルに出たら女の彼氏が現れ、いきずりの関係に過ぎないのに「私、この人と付き合うわ」と女に腕を絡ませられる始末。どうでも良いので放置して帰ろうとしたら何故か二人から追いかけられた。 今日一日の回想を終えて、「酷い一日だな」ともう一度黒尾は呟いた。自業自得とは一切思わなかった。 とにかく、早く自宅に帰って寝よう。こういう日はとっとと寝てしまうに限る。寝れば何もかも忘れる。黒尾はそう思っていた。 しかしその日、黒尾は到底忘れられないものに出会ってしまった。 雨で視界が悪いのに、息苦しいほどの人混みだったのに、足早に歩いていたのに、その後ろ姿は黒尾が記憶しているものとは明らかに異なっていたのに、それでも黒尾の瞳は見過ごさなかった。 雨の降る東京の街の交差点で、色とりどりの傘が犇めく人混みの中に一人だけ、とぼとぼと歩く傘を持たない少年。 腰ほどに長い髪の少年。 黒尾の視界に映ったのは一瞬だったが、すぐさま足を止める。そして振り返って地を蹴った。水飛沫がジーンズの裾を汚したが、そんなこと気にもとめなかった。 追いかけて後ろから肩を掴んで振り向かせた。 少年は驚愕したというよりは、怯えたような表情で黒尾を見返した。 しかし、目の前にいるのが黒尾だと認めると、怪訝そうに首を傾げた。 「クロ……何でこんなとこにいんの?」 それはこっちの台詞だと、黒尾は橙色の長い髪の少年に言いたくなった。 日向翔陽はただ、黒尾を見上げていた。 * どう見ても身の丈に合っていない黒尾の服を着た日向は、部屋の隅に身を寄せながらホットココアを嚥下していた。 交差点で見上げてくる日向を黒尾はわずか二秒で拉致した。黒尾はまるでタッチダウン寸前のアメフト選手のごとく日向の小さな身体を抱えあげて自宅までの道のりを走った。その間、まるで本当にボールになってしまったかのように日向はじっとしていた。 眠そうに目を細めてカップを持つ日向に黒尾は毛布を出してやりながら訊ねる。 「傘も挿さずに何でフラフラしてたんだ翔陽」 「…東京の天気予報観るの忘れてて。宮城は晴れだったから」 だから傘は忘れたのだと小さく呟く日向に、じゃあ東京には今日来たのかと黒尾は推測しながら「いや、そういうことじゃない」と首を振った。 「そうじゃなくて、何で東京に?言ってくれればオレは迎えに行ったぞ」 日向と黒尾と孤爪は交流があった。初めて試合をした日から頻繁に、というわけではないがメールもするし、電話もする。長い休みを利用して日向が二人に会いに行ったこともある。そこには部活動を越えたものがあり、だから日向は孤爪同様、黒尾をクロと呼ぶ。敬語も使わない。黒尾がそれを許していたし、むしろそうあってほしいと望んでいた。 日向翔陽のことが好きだったからだ。 烏野と音駒の練習試合で、初めて高く空を飛ぶ日向を見た時から黒尾は目が離せなくなってしまった。あんなに小さいのに、それはあまりにも大きな存在だったから。しかし身の内に湧き上がったその感情を、物理的な距離もあってか、持て余していた。 衝動的に連れ帰った日向を、黒尾はコーヒーを飲みながら眺める。日向の髪はドライヤーで乾かした為、今はフワフワと肩に乗っている。幼い日向の顔立ちも相まってか、少女のように見える。 最後に黒尾が日向を見たのは3ヶ月ほど前だが、その時は肩にかかってすらなかった。果たして100日ほどで、こんなに伸びるものだろうか。 黒尾の視線の意味に気付いたのか、日向はわずかに肩をすくめた。 「髪、伸ばしたんじゃねーよ。切っても切ってもすぐ伸びるんだよ」 「は?」 「本当に言葉通りなんだって」 * まるで髪自体が生命を持っているようだった。 言われるままに日向の髪を黒尾はハサミで切ってみた。10分ほどでショートヘアにして、髪が乗った新聞紙を折り畳んでゴミ箱に捨てて、何気なく振り返ると。 日向の髪はもう肩より少し下まで伸びていた。 瞠目した黒尾を日向は予想通りだと、口許を緩めた。 何が一体どうなっているのかと説明を求めると、日向自身もわからないのだと首を振った。 「最近切っても切っても、すぐに伸びるから東京の大きな病院で見てもらったんだ。でも……結局原因はわからないって」 髪先を弄りながら日向はココアをすすった。黒尾は首を傾げつつも一応は納得してみせた。そして本来一番気にしなければならない問題に移った。 「新幹線は?今日帰る予定なのか?」 「……ううん、明日」 「ホテルはとってないのか?」 「うん」 「じゃ泊まっていけよ」 黒尾の言葉に日向は目を細めながら頷いた。 その表情はなんだか達観した老人を思わせるもので、童顔の日向にはあまりにも不釣り合いで。 黒尾は日向の様子がおかしいことに確信が持てた。髪が伸びるという外貌とは別の、心神から滲みでる違和感。 儚い。 この一言に尽きた。 黒尾が知っている日向翔陽はひたむきで明るくて、幼さが抜けきらない。しかし、そこに佇む日向翔陽は悄然としていて、虹のようにすぐに消えてしまうような危うさを持っていた。 それでも黒尾はその時、日向はただ単に元気がないだけだと、もしくは疲れているだけだと思い直した。好きな相手と思いがけず遭遇出来て、浮かれていたのかも知れない。 日向が抱いているものの重要性に、結局最後まで黒尾は気付かなかった。 いつの間にかカップを床に置いて、身体を丸めながら寝息を立て始めた日向を黒尾は横抱きで抱えてベッドに移した。 布団をかけてやり、寝顔を見つめる。既に腰の真ん中辺りまで伸びた髪が扇のように広がっていた。髪に指を通しながら、一人暮らしで良かったと黒尾は心から思った。さらにある程度、時間に融通が利く大学生で良かったとも思った。 明日、大学をサボることは既に決定事項だ。 季節は直に夏を迎える。高二の日向はインターハイ目前である。重要な時期である為、日向は明日早くに帰省するだろう。練習をする為に。 ふっくらとした日向の頬を撫でながら、明日は駅まで見送ってやろうと黒尾は心に決める。 しかし予想に反して、次の日日向は帰らなかった。 いつまでいるんだ、練習は大丈夫なのか、学校には連絡しているのか、ちゃんと親とは話して来ているのか、山ほどの疑問を黒尾はついぞ口にしなかった。できなかった。 好きな相手となるべく一緒にいたいと思うのは当然だからだ。 それでも、「人は恋をすると愚かになるのだな」と黒尾はどこか他人事のように思った。 [*前へ][次へ#] [戻る] |