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その他小説
初恋カタルシスB
珈琲の薫りが染み付いて離れない事務所のソファーで及川は横になっていた。足が長すぎて、膝下から先が宙に浮いている。激しい雨が窓ガラスを破るようにノックしていた。こんな雨の日は誰も来ないので、本棚と業務用机とソファだけの侘しい事務所で待機しているのだ。
及川は真新しいスケッチブックのページを右手で捲った。中には鼻筋がすっと通った美しい女性が写実されていた。
横顔や後ろ姿、耳の形まで恐ろしいほど細かい描写だった。そして紙の端には『Saika Kitazawa』と書かれていた。

「生きてる」

紙の上の女を優しくなぞった。

「君はここで生きてる」

ゴォッという轟音が轟いて、空に亀裂が入ったように光った。どこかで落雷したらしい。

「及川君、掃除するから手伝って」

音もなく、気配もなく、ドア付近にマスターが立っていた。及川は身を起こした。その際にスケッチブックが床に落ちそうになって、持ち前の反射神経で床に着く前に受け止めた。そして大事そうに床に放置していた鞄に仕舞った。マスターは無言でそれまでの様を見詰めている。
今度こそ及川が立ち上がろうとした時、机に置かれていた古びたラジオが新しいニュースを告げた。

『昨夜未明、宮城県××市××区××町にお住まいの北澤さいかさん(31)が自宅で殺害されー…』

ブチンッと及川は強くラジオの電源を切った。突然の静寂に落雷が落ちたように空気にピリッとした電磁波が帯びたような気がした。

「今、行きます」

ふわりと前髪が浮いて流れる。及川が微笑むとマスターは軽くウィンクした。目尻の皺がニュッと寄って、チャーミングだった。不思議な話だが、特に整った顔立ちをしてるわけでもないマスターは、それでもなんとなく若い頃モテたのではと思わせる。
遠くで雷鳴がまた響いた。マスターはふと立ち止まって、不明瞭な窓の外を見詰めた。

「明日も降りそうだね」

「バレーが屋内スポーツで良かったですよ」

ふっと息が抜けるようにマスターが口許だけで笑った。

「君はバレーが好きだね」

「そうですね」

「君は日向君が好きだね」

及川は熱くなる頬を隠すようにそっぽを向いた。そんな及川をニヤッと笑うマスターが憎々しかった。人をからかうのは好きだが、からかわれるのは苦手だ。及川は首の後ろを掻く。

「からかわないで下さいよ、マスター」

「生き甲斐なんだ」

口笛を吹いて歩くマスターは相変わらず足音を立てなかった。その幽霊のような後ろ姿を追いながら、及川はボブ・ディランの『ハード・レイン』が流れる店内へと足を踏み出した。



浴室にいるかのような滝の雨。土の臭いすら抑えられているのか、清潔な空気が漂う空を日向は睨んだ。

今日は体育館が工事の為に使えず、練習はランニングや筋トレだけになった。しかし、途中から雨が降って来たので随分中途半端な部活動になってしまった。しかも今朝から降ってはいなかったが、怪しい天候だったというのに傘を忘れた。

しばらく下駄箱前で逡巡していたが、意を決して、足を踏み出そうとした時、後ろからぐいっと腕を引っ張られた。さながら扉の取っ手のように。

「ねぇ、こんな雨の中、傘も挿さずに帰ろうとかバカなの?トトロだって葉っぱでカバーしてるよ?」

月島が見たことのない遺跡を発見したような、理解出来ないというような眼差しで、日向の腕を掴んでいた。

「だって、おれ傘持ってねーもん」

トトロを引き合いに出しことを笑いそうになった日向を邪魔するように月島がすっと紺色の古びた傘を日向に握らせた。

「職員室では忘れ物の傘の貸し出しもしてるんだよ」

眩しい物でもあるかのように日向は手にある傘を見詰めて、次に月島を凝視する。

「なんでだ!?月島が優しい!!」

「やっぱり返して」

日向は月島の手が届かないように傘を身体で隠した。

「体調管理も選手の勤めだよ」

「おう、ありがとな」

お礼を言うと、月島は何かに当てられたようにそっぽを向く。
日向は久々に動かした玩具のように、開くのが億劫そうな埃っぽい傘を開いて、水の世界へ足を踏み出した。その横を月島も薄い黄色の傘を挿して並び歩く。

「山口は?」

「用事があるみたい」

「ふーん…」

ぱしゃぱしゃとカメラのシャッターをきるように歩く。前方は1メートル先も見えずらく、日向はまるで月島と二人きりの世界にいるようだと思った。

「あのさ、こないだ僕、君が青城の主将と一緒にいるとこ見たんだけど」

「えっ」

別に悪いことをしているわけではないのに、ドキリとした。

「仲良さげだった」

「おっおう。及川さん、すげーいい人でっ、影山が言ってたような性格悪い人じゃなくてさ。まぁ、偶然会って仲良くなったんだけど」

何を言い訳染みたことを言ってるんだろう。堂々と出来ない自分が日向は恥ずかしかった。

「君、青城のスパイなんじゃないの?」

日向は動きを止めた。いや、その瞬間、雨も音も止まったように感じた。頭痛のような、圧迫するほどの痛憤が体温をわずかに上げた。

「ち、ちげーよっ!!」

「っていう風にさ」

「え?」

「そういう風に言い出す奴も出てくるかも知れないから、あまりその人と付き合わない方がいいんじゃない」

波が引いていくように、屈辱感や非憤が引いていく。日向は月島の裏顎しか見えない。じわじわと安堵や歓喜が侵食してくる。月島は心配してくれたのだ。ぶっきらぼうで遠回しだけど、真意はちゃんと伝わった。

「うん…、ありがとな…」

「まぁ、君の頭でスパイ行為なんてまず成功しないと思うから取り越し苦労だろうけどね」

しっかり嫌味で終わることも忘れない。でも、やっぱり月島はいい奴だった。近付き難くて、高飛車だけど、ぶっきらぼうで優しい。とても居心地がいい。

日向が何か世間話でもしようかと口を開いた時、視界に入った液晶に思わず「あ、クビトリだ」と誰ともなく呟いた。
その言葉に月島も足を止めて、日向の視線の先を追った。田舎の小さな寂れた電気屋。そのテレビから流れるニュースが日向の足を止めさせたのだ。

「一昨日、北澤さいかさん(31)が自宅で首の部分がない状態で発見された事件で情報提供を呼びかけています。同様の事件は一ヶ月前の被害者、益井洋次さん(66)に続く8件目で犯人は通称クビトリと呼ばれていますがー…』

「物騒だな」

「何、怖いの?」

揶揄するようにニヤニヤ笑う月島に日向は素直に頷いた。

「そりゃこえーよ。夏や家族が狙われたらと考えると気が気じゃねーもん」

てっきり憤慨して否定してくるかと思っていたのか、月島は自分の軽率さに反省したように眼鏡を上げた。

「夏?」

「いもーと」

「ふぅん、でも次に狙われるのは10代の可能性も高いから君も気をつけた方がいいんじゃない?あ、妹も10代?」

「いや、違うけど…」と否定しながら、日向は怪訝に月島を見詰める。

「……何でそんなことわかんの?」

「クビトリの事件、わかってるだけでも8件発生してるわけだけど、20代から90代まで年代別に殺されてるわけ。そして全部首だけ犯人は持ち帰ってる。つまりコレクターなんだよね」

月島は息を吸った。

「犯人は首の部分に何らかの意味を見出だしていて、収集してるイカレヤローだよ。そしてコンプリートしていない年代は10代かそれ未満。だからさ」

いつ見ても綺麗に拭かれている月島の眼鏡に水滴が付着していた。その水滴が不穏に光ったように感じて、日向はわずかに震えた。

「君も、充分気をつけた方がいい」

「…お、お前もだろ…」

蚊が鳴くような声だ。

「僕がクビトリなら、こんなでかい男は狙わない」

「……」

日向は俯く。恐々とする自分を恥じるように震える手でハンドルのブレーキをかけたり、引いたりする。

「…ごめん、ちょっとびびらせすぎた」

「なっ!別にびびってねーよ!むひゃぶるいだ!」

「何で武者震いすんのさ。…これは僕の勝手な推理だし、遺体が上がってないだけかも知れないからわかんないよ」

月島はそう言ってフォローしたが、日向の不安は消えなかった。月島の推理はあまりにも説得力があるように感じて、むしろ煽られたぐらいだった。
月島は知らなかったのだ。日向がストーカーにあってるだなんて。もし知っていたら、いたずらに脅かすような真似はしなかったろう。
日向は頭を振った。

そして前方に移そうとした視線を、勢いよく背後に向けた。隣で月島がどうしたの、と反応する。

「……何でもない」

少なくともー…今感じた視線はクビトリとは関係ないはずだ。……きっと。
誤魔化すように笑って、月島に歩くように促した。それでもしつこい油汚れのように、いつまでも経っても背後に神経を尖らせてしまうのだった。


高いのと小さいのと、ちぐはぐな二人の姿を遠くから望遠鏡は捕らえていた。そのレンズに雫が張り付いて、景色が歪んだのを舌打ちをしながら、ハンカチで拭き取る。

「ホント、ムカつくんだけど、眼鏡君。マジで殺そうか」

憎々しげに吐いて、及川は再び望遠鏡を覗いた。雨は激しさを増して、二人の姿を消し去るようだった。

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あきゅろす。
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