[携帯モード] [URL送信]
-(3)

どうやら、まだ王宮へ戻るつもりはないようだ。
奥座敷に戻り、独り酒でも飲もうかと考えていたが、そう言えば馨(かぐわ)しい香りが風に運ばれて来ていたな、と、庭に出る事を思い立つ。

新客を迎えたのか、顔合わせの間へと膳を運ぶやり手の姿が、廊下の奥へと消えてゆく。
それとすれ違いながら庭へと続く濡れ縁へと渡った覇久毘は、備え付けられている沓を突っかけた。

庭園は、建物に取り囲まれる形で作られてはいるが、どういう造り方をしているのか、閉塞感は感じられない。
中央には大きな池が造られ、築山が築かれている。祥華楼は回廊になっているが、繋がっていない場所が一カ所だけあり、それを補うように架け橋の廊下が築山を間に挟む形で造られていた。
架け橋の廊下からは、池の中を悠々と遊ぶ鯉の姿を楽しむ事もできた。

覇久毘は、池の外側から築山に植えられた老木を見上げた。
宵闇の中、月の光に浮かび上がるのは、薄桃色の満開の花。

「なんと見事な……」

春の訪れを知らせるかのように先を競って花を綻ばせるこの月華は、先程、珠華が着けていた髪飾りの意匠として使われていたものである。
月華の咲き乱れる祥華楼の庭は一段と素晴らしく、覇久毘は感歎の溜め息を吐いた。
幾度となく見てきた風景だが、見飽きることはない。季節が巡る度に、一刻毎に姿を変える月華に魅入られる。
月光を纏って淡く輝く花弁が、濃密な香りを孕みながらはらりと舞い降りてくる。その様は妖艶で、覇久毘を知らず幻へと誘(いざな)う。
そ、と手を伸べると、小指の爪ほどの花弁が静かにその身を横たえた。
休息を得たのち、花弁は風に誘われ、覇久毘の手を離れて池の水と戯れ始めた。
覇久毘はうっすら口元に笑みを刷いて彼等の遊びを共に楽しむ。

「あっ」

聞こえて来たのは、月華の花の声か。
覇久毘は幻想の中でそう思いながら視線を上げた。
淡い紫の霞みが、覇久毘の視界を遮った。
まるで、月華の世界に紛れ込んだかのようだ。だが、よくよく見れば、それは肩に羽織る薄絹であった。

「薄絹?」

何故そんなものがここにあるのか。
覇久毘は池に落ちる前にそれを指先に引っ掛けた。
しげしげと手の中のものを眺めていると、あの、と遠慮がちに声がかけられた。
迦陵頻伽と謳われた珠華の美声とは質が違うが、耳を心地良く擽る、やわらかな声だった。

「ありがとうございます」

「これは……」

そなたのか――そう続けようとした唇が、震えて言葉にならなかった。

月華の精かと思った。

はっとする程の整った顔立ちと立ち姿、醸し出す雰囲気が、まるで月の魔力を借りた月華が、人の姿を形作ったかのようだ。


[*前へ][次へ#]

5/85ページ


あきゅろす。
無料HPエムペ!