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「ヨハン・アンデルセン」
 それは、大学からの帰り道のことだった。不意に名前を呼ばれた俺は顔を上げた。すると視界に飛び込んできたのは、歩行者用信号の赤色だった。まったく特別なものではない。人ごみの中でぽつねんと立ち尽くし、小首を傾げる。気のせいだろうか。そう思い再び顔を下げようとしたところで「ヨハン・アンデルセン」再び名前を呼ばれた。ハッとして周囲を見渡すが、やはり何も特別なものなど見えない。いったい何なのだろう。不思議に思いつつ顔を下げたところで、唐突に左の脛に激痛が走った。
「いッッ…!!」
「上ばかり見上げるとは貴様馬鹿にしているのか、雑草頭の分際で」
 信号が青に変わる。途端に人ごみが移動を始める。しかし俺は一歩も動くことが出来なかった。脛を押さえて蹲る俺の頭上から、やけに高圧的な声が降ってきた。しかもかなり無茶苦茶な内容を言っている気がする。誰かこんなことを、と苛立ちながらがばっと顔を上げて、しかし俺には眼前で仁王立ちをしている相手を睨みつけることは出来なかった。ほんの数瞬前まで抱いていた相手への怒りなど一気に霧散してしまう。呆気に取られるあまり硬直するしかない俺を、周囲の人間が胡散臭そうな迷惑そうな眼で見遣りな
がら通り過ぎていく。人ごみは、押し出されるようにしてぶわりと道路上へと広がったかと思えば、それぞれが行くべき方向を目掛けて散り散りになっていく。俺ひとりだけが取り残される。否、だ。ひとりではなく、俺と、この、相手だけ、が。恐らくは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしているであろう俺を見て、彼は、嘲笑うように口端を上向けさせた。フン
、と鼻でまで笑われる。
「相変わらずの間抜け面だな。無様な」
「おまえ、十代…じゃない、よな…?もしかして、おまえが…」
 十代に瓜二つな彼は、すうと金の瞳を細めて、こう言った。
「我が名は覇王。闇を統べる者」


 ひとまず場所を移した先で、俺は俺よりも頭ひとつ分身長の低い、覇王と名乗った少年と向かい合っていた。
外見はアカデミア時代の十代そのままだというのに、その無表情は幾ら見詰めても揺るがない。あまりに凝視しすぎたためか、しまいには「視線が鬱陶しい」と言われ脳天にチョップを落とされた。痛い。
「闇を滑る者はいいけどさ、」
「統べる者、だ。滑るわけが無いだろう馬鹿か」「あっ、ひっでぇ!なんだよ元は十代の癖にちょっと頭良いこと言ったからって
!」
「……ほう?俺が「十代」だと知っていて、暴言を吐くか。いいだろう。ならば「十代」としての力を使っておまえを滅してやろう。そうだな、俺のインフェルノ・ウィングを具現化させて焼き尽くすか、それともマリシャス・エッジを具現化させて、骨まで引き裂くか。選ばせてやる。どちらの死に方を望む」
「すみませんでした」
 徐に腰元のデッキケースからカードを取り出し、金色の瞳を意味深に輝かせ始めた覇王を見て俺は素直に謝った。カードの力の具現化などと、普通に考えればありえないことではあるが、これがはったりではないからこそ遊城十代という男は恐ろしいのだ。尤も、覇王は十代そのものではないようだっ
た。その証拠に、覇王の身体は、ほんの少し透けている。俺以外の人間の目では視認することは出来ない。つまり、デュエルモンスターズの精霊と、同じようなもの。但し、その特殊な能力により自らを具現化することは出来るらしいので、俺からは覇王に触れないが覇王から俺に暴行を加えることは出来るというわけだ。ちょっと卑怯だと思う。
「御託はいい。貴様はさっさと十代を助けに来い」
 覇王は溜息を吐きながらそう言いひとつのカードを取り出した。急にそのカードが光を放ち始める。あまりの目映さに眼を閉じ、俺の身体は光に包まれ、そして気がついた時には俺は先ほどまでいた場所とはまったく異なる場所に立っていた。何が起こったのかなどはもう推測するまでもない。真っ赤に光る空、爛れた雲、無骨な岩で覆われた地面の上に立ち尽くして俺は思う。嗚呼、異世界再びこんにちは。まあ、いい。異世界はどうでもいい。送り込むことが出来るのならば呼び戻すことも出来るのだろうと勝手に仮定して、ひとまずは覇王が俺の前に現れた目的を果たすべく周囲を見渡した。すると、案の定だ。地面から中空を射ようとしてでもいるかのように歪に鋭く突き出した岩の下に、ひとりの人間が横たわっている。鳶色の髪に、
小柄な身体。間違いない。
「十代!」
 慌てて駆け寄って抱き起こす。何か重傷を負って倒れでもしたのだろうか、それともダークネスや破滅の光のような精神体に攻撃を受けたのだろうか。うつ伏せになって倒れていたものだから、何か万一のことがあったものだと思って戦慄したのだが、しかし俺の緊張はすぐさま緩むことになる。腕の中の十代は怪我を負っているようにも見えなければ、特別な精神攻撃を受けたようでもないようだった。すうすうと、穏やかな寝息を半開きにした唇の合間から漏らしている。眠って、いる。普通に生きていた。だが、ほっと一安心をして脱力した俺のすぐ傍で「ただ眠っているだけのように見えるが、このまま放っておけば確実に十
代は死ぬ」と覇王が平然と告げた。ぎょっとして彼を振り仰ぐと、覇王は何を今更と言わんばかりの表情で、「その証拠に、俺が存在している」と言った。意味がわからない。
「俺は十代の防衛本能のようなものだからな」
 ますます意味がわからない。が、覇王が冗談で十代に関することを口にするとは思い難い。どうすればいいのかを尋ねるように彼を見ると、覇王は一度頷き、「そのまましっかりと十代を捕まえておけ」と言い、再びカードを振りかざした。目映い光があたり一面に迸る。反射的に瞳を閉じ、開いた時には、光は収束を果たしており俺は先ほどまで立っていた異世界の地を脱出し、馴染みの深い現代日本へと戻ってきていた。2度3度瞬きを繰り返し、ハッとして腕の中を見下ろす。そして今度こそ安堵の溜息を吐く。両手
で抱いていた親友の身体がぴくりと動き、やがて伏せられていた瞼が持ち上げられた。甘い鳶色をした瞳が光の下に晒される。十代は、少しの
間ぼうっとしていたが、やがて俺と視線を合わせると、ふわりと微笑んだ。
「よお、ヨハン…久しぶりだな」
「久しぶり、じゃねぇよ!まったく、あんなところで何してるんだおまえはぁっ

「ははっワリィ…おまえが助けてくれたんだな。サンキュー」
「いや、俺はただ覇王に言われて…」
 なあ、と覇王自身に同意を得ようとして振り返り、俺は瞠目した。先ほどまで傍らに佇んでいたはずの覇王は、何時の間にか、すっかり姿を消してしまっていた。


「防衛本能、とはそのままの意味だ。俺は十代が危機に瀕した時にのみ精神体として分離することを許されている。当然、十代が危機から脱すれば本体へと戻る。俺が存在する必要がなくなるからな。俺は十代を消滅から守るためだけに存在している。他に存在する意味など、無い」
 覇王は淡々と語ったが、俺にはあまりに壮大すぎる事情であるため理解するこ
とが出来なかった。
 つまり、こうだ。覇王は、十代が、異世界で起きた出来事によって瀕死の重傷を負ったり、力の使いすぎで人間としての世界から道を外れそうになったり(初めて俺の元に覇王が現れた時がこの時だったらしい。精霊の力を使いすぎた十代は二度と目覚めない眠りに落ち、人間としての死を迎え、完全なる精霊として生まれ変わることになってしまうという。こうなれば、二度と人間世界には、戻ってこられない)、どうにもならない生命の危機に瀕したりした時に十代本体から分離して現れるという。これは無意識下で行われていることらしく、十代自身は自分が自らの危機を脱するために本能的に覇王を切り離して俺の元に送り込んでいることを自覚していない。覇王、という自らの分身の存在も、記憶していない。ただ、十代が無意識のうちに俺の元に覇王を送り込んでいるということは、間違いなく十代は俺に対して心を開いている、らしい。他
にも、精霊と同義であるらしい覇王を視認することが出来る存在が俺を含めた一部の人間のみであるため、という説もあるが、覇王は渋面を作りながら「しかし十代は、他の者の元に俺を送り込みはしないだろう」と言った。覇王を送り込むということは、つまり自らの命運を任せるということ。信頼している人間にしか命を預けることは出来ないということだ。俺
は、命を預けてもらえるほどに十代に信頼してもらえていることを素直に喜んだが、覇王は忌々しそうに俺を睨みつけるのみだった。
 というわけで、覇王は度々俺の元に現れるようになった。その度に俺は覇王が使う不思議なカードの光に導かれるがままに十代の元へと駆けつけ、彼を抱き上げ元の世界へと戻ってくる。十代は、元の世界に戻ってくるとすぐさま元気を取り戻した。因みに、覇王が出現する原因となっている十代の危機は、今のところ、「力を使いすぎたことによって生じる昏睡状態」が殆どである。俺は時折不安になる。当初こそ半年に1度ペースであった
この現象が、何時の間にか3ヶ月に1度ペースになり、今ではひと月に一度は覇王に背中を蹴られる羽目になっている。覇王に蹴られることは兎も角として、十代が「人間の死」との一線を踏み越えかける頻度が増していることは決してよいこととは言えなかった。憤慨して、「なんでそんな、力を使いすぎるなんてことが頻発するんだよ!」と尋ねると、覇王はひややかな瞳をして「おまえにはわかるまい。十代が、人知れぬ場所で、どのような戦いを毎朝毎夜繰り返していることか」と返してきた。こう言われると、俺に
は黙り込むことしか出来なくなってしまう。十代の戦いには、誰も介入することが出来ない。人としてのうのうと日々を過ごしている俺たちには理解が出来ない、永遠を手にしてしまった者の、苦しみのようなものだ。
 しかし覇王も、これに関しては鉄面皮を少しだけ揺るがせて、ぽつりと零した。
「だが、力を使い過ぎているということは無い。最近では、死闘とまで呼べるような戦いは少なくなってきている。力を使うことが十代に及ぼす影響が、強くなり始めているのかも知れないな」
 何かを堪えるような、苦しげな横顔をしていた。だが、俺が何かを言う前に覇王は首を横に振り、「話は終わりだ。十代を助けに行くぞ」と立ち上がった。釣られるように慌てて立ち上がりながらも、俺は覇王の横顔から視線を逸らすことが出来なかった。




 時間は流れる。一度として停滞することなどなく、何度も何度も同じことを繰り返している。翻弄され続けている。
「もしも、もしもの話だぜ?」
 俺は雪の玉を指先で手遊びながら尋ねた。視線の先には、キャッキャッとかわいらしい声を上げながら真っ白な雪を小さい手で掬い上げては弾けるように笑い声を零している小さな娘の姿がある。その傍らには大事な妻が付き添っており、ひどく優しげな母と子供の、愛する家族の光景に、胸の奥が暖かくなるようだった。しかし口から漏れ出る声は冷静な男の声そのものだった。覇王は、横目で俺を見た。視線だけで続きを促されている。俺は、ふふ、と笑いながら、言葉を続けた。
「覇王を分離した状態のまま、十代が死に到ってしまったら、おまえはどうなるんだ?」
 俺の問いかけに、覇王はふうと溜息をひとつ漏らした。首を左右に振り、はっきりと、「俺も消滅する」と口にした。当然のことであるかのような口振りだった。俺はただ、「そうか」とのみ返した。
 十代が危機に陥る頻度は、一時とは打って変わって少なくなった。俺が厳しい表情をして、「おまえ、もうむやみやたらと力を使うんじゃない。いい加減に、俺も助けてやれなくなるんだぞ」と叱りつけてからのことだ。
今では5ヶ月に1度というペースに戻っている。それでも1年に2度以上は死に掛けている、という事実には、溜息を吐かざるを得なかった。俺の立場ならありえない。年に2度以上もそのような心配を妻や娘にかけることなどしたくない、と思う。そういった保守的な思考が芽生えるほどには、初めてそういった事態に遭遇してから時間が流れていた。そして今日も俺は十代を助けに行く。異世界のどこかで眠りこけている十代を、こちらに引き戻しに行く。覇王は何も言わないまま俺の後をついてくる。十代は、十年が経過した今も、アカデミアを卒業したあの日と変わらぬ姿でいた。覇王も、俺がこちらのアカデミアに留学してき
た時に出会った当時の十代の姿のままだった。ふたりの時間は経過しない。俺の時間だけが、刻々と、磨り減っていっている。
 時折思う。俺が死んでしまった後は、誰が十代を助けに行くのだろうかと。十代の身体はとても軽かったが、あと四十年もすれば、俺は十代を抱え上げることすら出来なくなってしまう。五十年もすれば異世界に行くこと自体が難しくなるだろうし、六十年後には自分が生きているのかすら定かではなくなってしまうだろう。果たして十代は人間としての死を迎え、精霊として永遠に生き続けることになるのだろうか。
 俺は、そうではないのではないかと、思う。

「実はさ、嘘、なんだろ。十代が永遠に目覚めることの無い眠りについたとして、おまえが消滅することは無いんだろ」
 
 時間は流れに流れた。そうして、俺にはもう、何もしてやることが出来なくなってしまった。だというのに覇王は俺の前に現れる。幼い無表情で、俺を見下ろしてくる。俺は、道に迷った子供のような表情でこちらを見詰めてくる金色に、微笑みかけようとして、しかしうまく頬が動かなかった。笑おうとしたことは伝わっただろうか。伝わっていればいいのに、と思う。最早俺には自分の身体すら随意にすることが出来なくなってしまう。ましてや十代を助けることなど出来るはずがないというのに、それでも覇王は俺の前に現れる。まるで俺を看取ろうとしてくれているかのように。否、実際そうなのだろう。ただ、覇王は、何年経とうとも孤高であったし、それは素直でないということでもあった。
「何故、そう思う」
「確証は、ないさ。でも、確信はしてる。なんでかな、わかるのさ。おまえの顔を見れば、な」
 覇王はきゅっと唇を噛み締めた。俺はゆっくりと瞳を閉じて、「ごめんな」と言った。
「何故謝る」
「おまえを、ずっとひとりぼっちにしてしまうからさ。誰も十代をこちらに引き戻すことが出来なければ、十代はいずれ息を止めて、永遠の眠りについてしまうんだろう?その時が、おまえの本当の覚醒の時だって、わかるよ。でもおまえが十代から完全に分離されて、独立した精霊になる時には、おまえを視認できる相手はいなくなってしまっている…」
 何時だったか、覇王は自らのことを十代の「防衛本能」だと言った。しかしそれは違う。覇王は十代の「生存本能」に他ならない。自らが死に向かおうとしている時に、覇王を自らの肉体の滅びから逃がすことで、十代は覇王を生き残らせようとしている。最近になってわかったことがある。それは、幾らどのような肉体になったとしても、十代は人間だということだ。人間は精霊にはなれない。ましてや、ひとつの魂が人間と精霊とに分けられて歪まずにいられるわけがない。十代が精霊の力を使いすぎるということ、精霊に近づいてしまうということ、つまりそれは十代の人間としての部分が死に近づき、精霊として生まれ変わる時が近づいているということだった。十代の精霊としての部分が「覇王」そのものだとすれば、力を使った十代
が人間として弱っている時に覇王が出現することも頷ける。あくまで、覇王は十代だ。しかし、ふたりは、共存することは出来ないのだ。悲しい魂のめぐり合わせだと思う。折角、ひとつの魂が、様々な力の干渉を受けてふたつの心に分かれたのならば、どんなに歪な形であろうとも共存することが出来ればいいのに。
 残酷なことを口に出してしまったと思っている。覇王ももう気付いている。覇王が、十代との分離を起こす度に俺に会いに来ていたのは、十代を助けて欲しかったためだけではない。もう一度「ごめんな」と謝った。覇王は何も言わなかった。初めて会った時よりも随分と老いさらばえてしまったであろう俺の顔を、食い入るように見詰めていただけだった。
「きっと、現れる…精霊が見える人間は、俺たち、以外にも、きっと、どこかに……」
「…もういい、喋るな」
 俺は必死に手を伸ばした。震える指先を、満足に持ち上げることすら出来なかった。悲しかった。伝えたいのに、伝わらない。覇王はゆるく首を振り、自ら手を伸ばして俺の指先に触れてくれた。勿論、実体は無い。覇王からは、既に、自らを実体化する力が損なわれていた。完全なる精霊は自らを実体化することなど出来ない。そういうことなのだ。
「安らかに眠れ。世話になったな、ヨハン・アンデルセン」
 覇王がゆっくりと、掌を眼の上にかざす。と、何の力が及んだわけでもないというのに、急激な眠気が襲い来た。俺を身体ごと包み込む、暗き安らぎの闇だ。霞み行く視界の中央で、覇王の影が揺れていた。嗚呼、と思う。誰か彼を、哀しき孤高の精霊を、理解してくれる相手が現れてくれないだろうか。じゅうだい、じゅうだい、おまえは今何処にいるんだ。じゅうだい、先を照らしてくれ、おまえの光ならば、淋しいおまえの番の魂だって照らせるはずだろう。ああ、ああ、何も見えない。どこかで、バタン!、とけたたましい音を立てて扉が開いた。お父さん!、娘が泣き叫びながら俺の肉体に追い縋ってくる。続けて妻が部屋に入ってきて、俺の死に顔を見るなりその場に崩れ落ちた。俺はその光景を何処かから眺めている。ありがとう、愛しい家族たち。俺は幸せだったよ。しかし心残りがひとつだけ、あるんだ。

 誰か、助けてやっておくれ。俺では救うことが出来なかった魂を。
 どうか、あの哀しき魂に、光射す道を、示しておくれ。










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