褪ロラ
10
「ち、血が出てるかも……。ちょっと、見せて……」
「……、」
アキくんが何かを言いかけて、しかし丁度いいタイミングで玄関の扉の開く音がした。すぐにエルドさんが顔を覗かせて、僕たちの姿を認めると、きょとんとした表情で固まった。
アキくんは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
やがて無造作にタオルで髪をがしがしと拭きながら、ロヴィも居間に戻ってきた。無言で固まっている僕たち三人の様子に、ぎくりと彼もまた動きを止める。そして、アキくんの手袋を引っ張るように掴んだ僕に目を留めると、何かを察したように肩を少し竦めた。
「まあ、いっか……」
アキくんが、僕の手から逃れるように腕を引く。手袋の上から掴んだ指は、逃げるようにするすると滑って黒い布からずれていく。
――果たして。
手袋を取ったアキくんの指先は、真っ黒に変色していた。
否、変色なんて生易しいものではない。それはまるで、インクで塗り潰したような、驚くほど純度の高い黒だった。
「……どう、して」
思わず言葉を失った僕が、やっとの思いで口にしたのはそんな一言だった。
「あーあ……。できればもう少し黙ってるつもりだったのに」
「アキくん……」
ロヴィは、そっと目を伏せた。
エルドさんは押し黙ったまま、じっとアキくんの手を見詰めていた。
「一つ、誤解しないでほしいんだけど」
「……え?」
「別に、”こう”なってるからって、何か害があるわけじゃないんだ」
「な」
「カップを落としたのはちょっと疲れてたからで、これでも指はまともに動くし、痛くも何ともない」
アキくんの言葉に、僕は耳を疑う。
ロヴィも、エルドさんも、どうして何も言わないんだろう。
「だって、こんな……」
「痛くないんだよ」
金の瞳がゆるりと細められるのを、僕はただ見ていた。
「……俺ね。……痛覚、ないから」
淡々と、どうでもいいことのように、アキくんはさらりと言ってのけた。
「――痛くないんだ」
きっと僕は、ひどく思い違いをしていたのだと思う。
黒い靄を纏って、楽しそうに”影”と遊ぶ彼の姿に、僕は確かに狂気を見た。
けれどアキくんは異常なんかじゃないんだ。アキくんは狂ってなんていない。だって彼はこんなにも正気で、今までのアキくんと何ら変わりはしないのだから。
けれどそれこそが、異常。
指先から付け根までを真っ黒に染めながら――もはやそれは人の皮膚であるのかどうかすら疑わしいほどに――それでも金色の瞳は、その美しさに翳りの一つも見せはしなかった。浮かべる表情もまるで子供らしくない、落ち着いた雰囲気もそのままに、彼の体は異常を来している。それなのに、当の本人は何も変わったことなど起きてはいないような顔をして、いつも通りに振る舞い続けているのだ。
これが異常でなくて何だろうか。
これが、こんなことが――、まともであるはずがない。
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