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褪ロラ
9


 決死の逃走劇を繰り広げた僕の体は、実際に音を立てていないのが不思議なくらいに軋んでいた。酷使された筋肉は引き攣ったように微かに震えて、とてもまともには歩けそうになく、エルドさんに半ば抱えられるようにして僕は帰路に着いた。それにしても今回の件についてはいきなり僕を走らせたこの人にも責任の一端はあると思うので、僕は遠慮なく抱えてもらうことにした。
 第五支部の玄関の扉をくぐり、居間に辿り着くと、ようやく帰ってきたのだと実感する。今日もなんとか、無事ここに帰ってくることが出来た。戦いに参加するようになって初めて、本気で死を覚悟した日である。安全な場所に帰還したことの喜びもまた一入だった。
 つい一週間ほど前には想像もできなかったことであるが、慣れとは偉大だ。あんなにも馴染めないと悩んでいたあの頃が嘘のように、いつしかこの家に強く安心感を覚えるようになっていた。

 くあ、と欠伸を一つ、目元を袖口でごしごしと擦って、ロヴィは眠そうに何度か瞬きした。
 あの一瞬だけ異質な空気を纏っていた彼は、けれど僕を振り返ったときにはいつもの様子に戻っていた。何に対してあれほど背筋が凍ったのかわからなくなってしまったほどに、本当にいつも通りのロヴィだった。

 帰って来るなり、僕たちは順番にお風呂に入る。それからご飯を食べて、少しゆっくり時間を過ごして、日の昇りきった頃に眠るのだ。
 ロヴィはお風呂に入っていて、エルドさんは、切らしていたのを忘れていたと言って、近くのコンビニに調味料を買い足しに行っていた。まだ朝早いので、この時間では近くのスーパーは開いていない。割高な買い物になってしまうことを嘆きながら、財布をズボンのポケットにねじ込んでいた

 ソファに腰掛けた僕は、過酷な労働に耐えた体を、揉みほぐすことで労わっていた。何をどうしたって明日の筋肉痛からは免れないだろうが、せめて悪足掻きはしたかった。そしてそれ以上に、僕を命の危機から救ってくれたこの手足に感謝したかった。
 そんなことを考えつつ右足のふくらはぎをさすっていると、台所から何かが割れたような音がして、僕は慌てて立ち上がった。転びそうになりながらも駆け寄ってみれば、アキくんが床に落ちてバラバラに砕け散ったティーカップの残骸を見下ろしていた。
 僕と目が合うなり、うわ、とでも言いたげな顔をして、アキくんは再び床に目を落として呟いた。

 「……手が、滑っちゃって」
 「……、本当?」
 「本当」

 嫌な感じが、した。

 「……何、その変な顔。何ともないってば」
 「でも……」
 「片付けるから、退いてて。踏まないようにね」

 よくないことだとロヴィは言っていた。ちゃんと僕は覚えている。忘れてなんかいない。
 黒い靄の力を利用して戦うアキくんのあの戦闘スタイルは、決して良いものではないのだ。だから、もしかしたら、こんな風に何かしらの副作用があったとしてもおかしくないのではないか。
 欠片を拾おうと陶器の鋭い切っ先に触れたアキくんの指が、無造作にそれを掴む。加減を忘れてしまったかのように、しっかりと。

 「……!」

 拾い集める陶器の白に、微かな赤い線を発見した僕は、驚いてアキくんの手を取った。





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