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褪ロラ
8



 「う、わ、わ、わーー……?!?」

 悲鳴まで気の抜けた調子になってしまって恥ずかしいことこの上ないが、この際どうか勘弁してほしい。とにかく必死だったのである。逃げなければ死ぬ。対抗手段はない。捕まったら、追い付かれたら最後、僕は確実に死ぬ。そんな事実ばかりが頭の中をぐるぐると回って、僕は脱兎のごとく一目散に相対した”影”から逃走した。
 「ついてってやれ」って、そういうことか。酷い。言葉の誤用にしても限度がある。だってこれは、紛れもなくただの囮である。
 自慢ではないが、僕の足は遅い。しかし、それに輪をかけて一本足の”影”たちも鈍足だったのはもはや僥倖を通り越して奇跡である。辛うじて追い付かれずに走り回りながらどうにか視線を巡らせてみれば、ロヴィは集中しているのか、この決死の逃走劇は目に入っていないようだった。恥を晒さずに済んでほっとする気持ちと、顧みられていないことを虚しく思う気持ちが半々だった。

 「ほんとに危なくなったら駆け付けてやるから! 頑張れ!」

 アキくんの無茶苦茶な特攻を見守りつつ(せっかく合体した件の”影”は彼の手によって再びバラバラにされたらしい)、エルドさんは時々目の端で僕のことを確認してくれている。しかし今がもうすでにその「ほんとに危ない」状況だと思うのだが、僕の元に駆け付けてくれる様子は一向に見られなかった。泣きたくなった。
 どうしよう、いざとなったら僕の武器でどうにかならないか。そう、例えば盾にするとか。――いやいやいや、あんなぐにゃぐにゃのものがどう盾になるというんだ。多少は衝撃を緩和してくれるかもしれないが、どちらにせよ一撃で使い物にならなくなるに決まっている。というか、使い物にならなくなっていいのか? これは持ち主の心のようなものだと言っていた。いくら武器として無能だとは言え、それは”これ”とて同じだろう。怖すぎる、却下だ、やめておこう。
 まるで持久走である。心臓があり得ないくらいに早鐘を打って、冷え切った手足の感覚はもはや完全に麻痺していた。何度も言うが、僕に体力はほとんどない。こんなに走ったのは生まれて初めてである。記憶はないけれど、僕の体がそう言っている。

 「エルドさん……! も、もう、むり……っ!」
 「あと三十秒頑張れ……!」

 三十秒? 何が三十秒? 酸素の不足に喘ぐ僕の頭は、いつにも増して回転が遅い。わけがわからないままに僕はその言葉を信じ切って、愚直に一から数を数えていくことにした。
 いーち。にーい。さーん。……えっと、ご? あれ? うーん。
 なんとなく二十五を過ぎたあたりで、いよいよ視界が霞み始めた。これは本当の本当にまずいと目前に迫った死を明確に意識した僕は、不運にもとうとう足を縺れさせて転倒した。痛みを感じている余裕もないほどに疲れ切っていた僕は、とにかくもう走らなくていいのだという事実に安堵した。
 耐え切れずに瞼を下ろして、最期のときを待つ。あの一本足はどうやって僕を殺すだろうか。体当たりか、蹴り技か。ひょっとしたら全然違う形に変形して、想像もつかないくらい凄惨な殺され方をしてしまうのかも。だって”影”は、なんでもありだ。
 けれど、覚悟していたその時はなかなか訪れなかった。重い瞼を持ち上げて、這いつくばりながら”影”の姿を探した僕は、すぐにその答えを目にした。
 馴染みのある黒い背中が、足元に横たわる黒い塊を見下ろしていた。左手には黒いナイフを握って、右手には無理矢理引きちぎったような”影”の一部をぶら下げていた。ロヴィは僕を振り返らないままゆっくりと片足を持ち上げて、まだ微かに動いている”影”を思い切り踏み潰した。――ごしゃり。硬いものを砕く音に、微かな水音が混じった。それは、いつか耳にした人体の破壊される音にどこか似ていて、僕は少し気分が悪くなった。
 ちょうど浄化が終わったのか、間一髪のところで助けに入ってくれたロヴィに、僕はお礼を言うべく立ち上がった。
 そして、踏み出した足を、――思わず止めた。
 この時の感覚をなんと表現すればいいだろう。恐怖とも違う、嫌悪とも違う。少なくともこれまで抱いてきたどの感覚とも異質のものだった。強いて挙げるならば、”影”の存在を察知したときの、あの寒気にも似た震えに近いだろうか。
 とにかく僕は、足が竦んでしまったのである。
 その目を、見て。
 ――心底、ぞっとした。

 あんな目をしたロヴィを、僕は知らない。





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あきゅろす。
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