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褪ロラ
2


 その日、僕が部屋を出ると、鼻先を甘いにおいが掠めた。
 階段を降りて何事かと様子を見に行くと、見慣れた背中が二つ、壁の陰に隠れるようにして台所を覗いていた。

 「……二人とも何してるの」
 「……! しーっ……!」

 揃って口に人差し指を当てて、僕に黙れと手振りで伝える。
 僕は怪訝に思いつつも頷いて、両手で口を覆いながら足音を立てないよう静かに近付いた。二人に倣って、しゃがみ込んで体を壁にぴったりとくっつける。向こう側を見ればアキくんの背中が見えた。
 ――どうでもいいけれど、上からエルドさん、ロヴィ、僕の順に、目から上だけを覗かせているこの光景は、端から見たらさぞ滑稽なことだろう。

 「ほんとにうまくいくのかよ……?」
 「絶対食う。いいから見てろって」

 頭上から、ひそひそ声のやり取りが聞こえてくる。アキくんの目の前にはお皿があって、そこにはよくわからないものが盛り付けられていた。焼き菓子、だろうか。僕はお菓子にあまり詳しくないので、遠目に見ただけではそれがなんなのか判断することは難しかった。
 アキくんはそのお菓子(多分)を、じっと見つめていた。

 「……いいか、あいつは俺のことが嫌いだ」
 「グふォ……っ!?」

 いきなりロヴィが噴き出して、僕の頭に息とか唾とかが全部かかった。にわかに生暖かくなった頭頂部を僕が押さえるのと同時に、ロヴィは口元を覆ったまま崩れ落ちて、エルドさんの足元に蹲った。丸まった背中からは、ヒィヒィと変な息遣いが聞こえる。
 どうしたことかと僕がオロオロしていると、エルドさんの拳がロヴィの頭に直撃した。ゴンッと容赦のない音がしたのと同時に、ロヴィの変な呼吸もすぐに収まった。――代わりに、今度は頭を抱えて黙り込んでしまったけれど。
 幸い、壁の向こうのアキくんにはまだ気付かれていないようだった。

 「エルドさん、嫌われてるの」
 「……っ、いや、だからそこはさらっと流せよ……! 本題はそこじゃねえよ!」
 「はー、笑った……。いきなり笑わせにくるのやめろって」
 「もう一発殴られてえのかクソボケ、ああ!?」
 「こ、声、大きい、聞こえる」

 エルドさんの上着の裾を引っ張って、僕も口もとに人差し指を当ててみた。すぐにエルドさんは口を噤んでくれた。ちゃんと意味が伝わってちょっと嬉しかった。
 いつの間にか起き上がったロヴィが、僕の肩に腕を置いて上から体重をかけてきた。バランスを崩しかけて、僕が慌てて床に手を着いた時だった。

 「……あ……」
 「食った……!」

 アキくんがお菓子を一口食べた。
 ただそれだけのことなのだけど、二人はとても盛り上がっていた。

 「なんでだ……!?」
 「それをさっき説明しようとしたのに、お前が変なとこでツボるから……!」

 曰く、「後で食べる、誰も食べるな」と書いたメモをお菓子のすぐそばに置いておいたらしい。エルドさんの書いたメモだとわかるように、わざわざ名前まで書いて。
 甘いもの好きなアキくんなら、エルドさんへの嫌がらせも兼ねて(さすがに少し気の毒だ)、敢えて食べるだろう。そう予測して立てられた作戦だった。驚いたことに、実はそのお菓子はエルドさんの手製で、夜なべ(昼間に)して作った自信作らしい。台所を使った形跡を微塵も残さないよう細心の注意を払って、既製品と見紛うばかりの出来のお菓子を作り上げたと語るエルドさんはとても誇らしげだった。
 それにしても、食べるなと言われたのに食べてしまうアキくんの意外に天邪鬼な一面に、僕は少しほっこりしていた。

 「なるほど……。嫌われてるのを逆手に取った作戦勝ちだな! 意外に策士なんだな、あんた!」
 「嫌われてねえよ、うるせえよ! お前絶対面白がってんだろ……!?」

 一口食べて、気に入ったのだろう。いそいそと紅茶を淹れ始めたアキくんは、どうやら本格的にお茶にするつもりらしい。微かに鼻歌まで聞こえてくる。なんだか機嫌が良さそうだ。

 「……それで、いつまでここで見てるの」
 「どうする?」
 「もういいだろ。……行ってくる」

 姿勢を正して立ち上がったエルドさんは、ゆっくりと歩き出した。食卓で幸せそうにお菓子を頬張っていたアキくんは、それに気づいてさっと顔色を変えた。

 「…………!」
 「お前、それ……」
 「何」
 「……うまいか?」
 「……、……は?」

 てっきり勝手に食べていることについて文句を言われるのだと思ったのだろう。アキくんは大きな目を見開いて、ちょっと間抜けな声を出した。

 「お……、……美味しい、けど。何」
 「……もう一回言ってくれ」
 「な、なんだよ気持ち悪いな……! 普通に美味しいよ!」
 「普通……? 普通なのか?」
 「……いや、かなり美味しいと思う」
 「ほー? また食いたいか?」
 「……どこに売ってたのか、お店は知りたいけど……。ねえ、さっきから何……?」
 「ふふん……。今言ったこと、忘れんなよ?」

 アキくんを見下ろす赤い瞳は、勝利を確信していた。

 「――俺が作った」




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あきゅろす。
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