褪ロラ
10
周囲を注意深く警戒する僕たちから少し離れた場所に、アキくんは静かに佇んでいた。両腕を体の横にだらりとぶら下げて、脱力した姿勢に僕は瞠目した。だって、アキくんはもう、”影”の標的になり得るのに。
「アキく……」
僕がそう言うが早いか、四つ足の獣が猛烈な勢いで突進してくるのが見えた。”影”にとってもまた、この雑木林は何の障害にもならない。一直線に弾丸のごとく突き進んでくる獣のしなやかな体は、それ自体が一つのバネだ。瞬く間に距離を詰めた”影”は力強く地面を蹴って、アキくんに飛び掛かった。
「……馬鹿みたい」
心底けだるそうな声に、僕は思わず閉じた目を開けて、覆った顔を上げる。先ほどと同じ場所に佇んでいるアキくんと、その体に何か黒いものが覆い被さっているのが見えた。アキくんを目掛けて襲い掛かった獣型の”影”が、ぐったりと力なく彼の体に凭れかかっているようだった。
“影”の背中からは、何か細くて鋭利なものが突き出ていた。それは、”影”と同じようでいて、似て非なるもの。――武器だ。
表情のない冷たい瞳で”影”を見下ろして、アキくんは、吐息まじりに呟いた。
「邪魔」
足の裏で無造作に”影”を押しやりながら引き抜いたそれは、細身の剣だった。折れそうなほどに華奢で繊細な印象の片手剣。あれが彼の心だと言うのなら、なんと危うい形をしているのだろう。
「向こうから勝手にやって来るんだから、下手に動かずに大人しく待ってればいいんだよ。牙が届く前に、一撃で仕留めればいいだけ。……でしょ?」
――ふふ。
アキくんのふっくらした唇が、笑みの形に歪む。固唾を呑んで彼を見守っていた僕たちは、その光景を目にして言葉を失った。
崩れ落ちた”影”の残骸から、黒い靄が立ち上り始める。人の体を蝕み、死に至らせる猛毒の靄。
「あれ……、あの靄……」
それがなぜか、アキくんの指先に、腕に、纏わりついていく。
僕たちは一度あの靄に殺されかけて、ロヴィに救われた身だ。けれど、もう次はない。再び許容量を超えて靄を摂取すれば、僕たちは二度目の終わりを迎える。
それは同時に、“影”という異形の誕生でもある。
「ロヴィ、アキくんが……」
「ああ、わかってる」
“影”の気配は依然として消えていない。まだどこかに潜伏しているようだ。やはり林の中では、”影”の姿は無数の影に埋もれてしまう。ここに来てしまったのは失敗だったかもしれない。
「……大丈夫、なのかな」
「どう思う? ちょっとは自分で考えんのも大事だぞ」
ぴりぴりと張り詰めた空気の中、僕は声を潜めてロヴィに問う。腰を落として左手にナイフを握る彼には一分の隙も感じられないけれど、涼しい顔には笑みすら浮かべる余裕があった。
「よくない、と思う」
「……正解だ」
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