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褪ロラ
5


「実は彼には双子の兄がいてね。それは仲の良い兄弟だった」

 白々しい話し方が、なんとなく耳に纏わりつく。
 その兄が誰かなんて、僕にだってわかることだ。

「弟を心の底から愛していた兄は、こう願ったんだ。『弟を助けて』、と」

 ――ロヴィの、願い。

「美しき兄弟愛に胸を打たれた心優しい神様は、彼の願いを叶えてやろうと手を差し伸べることに決めた」

 いつかロヴィと話したことがあった。世界で初めて黒い靄が確認されたのは――。

「かくして世界は歪み、黒い靄が生み出された。人類に未曽有の大量死をもたらすことになる、死の靄が」
「……」

 人の願いによって生まれる黒い靄。最初に生まれた黒い靄が、ロヴィの願いから生まれたのだとすれば。

「願いの代償に、彼が神様に命じられたことは、一つ──」

 でも、逆のはずではなかったのか。
 ロヴィは黒い靄を生むんじゃなくて、消すことのできる唯一の存在だ。
 だからみんながロヴィに助けを求める。でも、ロヴィはそのためだけの道具ではなくて、一人の人間だって、僕はそう思うから。

「──今度は自分が、人の願いを叶えること」

 暑くもないのに、背中に熱がこもっている。汗が滲んで気持ち悪い。
 とても――嫌な感じがする。

「そのために、彼はある力を与えられていた。それが、黒い靄を消滅させる力。そして、人体を蝕む黒い靄を、心という器に定着させる力だ」
 
 知っている。それは僕の――僕たちの、とてもよく知っている力だ。

「定着させた黒い靄が武器としての形をとり、それがいずれ黒い靄で溢れてしまった時、異形に転じることはまた別の話――とかく、体外に靄を取り出してしまえば、少なくとも身体的な苦痛からは解放されることがわかった」

 固い言葉で飾られてはいるが、その通りだ。それゆえに彼は、いつだって難しい立場に立たされてきた。

「当然の結果として、彼の元に人の願いは殺到した。『生きたい』。『まだ死にたくない』。『助けて』。その全てを、叶える義務を負う。それが、彼と神様――いや、世界との契約だった」
「契約……」
「そう、契約だ。もし反故にしたらその時は――」
「その時は……?」

 僕を見ていた紫が、すっと逸らされる。その先を追っていけば、カルロくんの無表情に辿り着いた。

「自身の全てをなげうってまでこの未来に繋げた弟の存在が、『なかったこと』になる。そういう条件のもとに、それでも受け入れた契約だった」

 それはつまり、ロヴィがもしも誰かの「願い」を聞き届けず無下にしたら、その時がカルロくんの最期の瞬間になる、と。
 それでは契約は、今この瞬間も生きているということではないか。
 ひどくロヴィに負担の大きい、不公平な契約のように思える。だってこれでは、ロヴィはカルロくんが死ぬまで、半永久的に縛られ続けることになる。こんな条件では、はなから前提としてロヴィが契約の完全な履行を迎える日は来ないではないか。
 でも――それでも、人一人を生かすためだと思えば安いのだろうか?
 単に、僕には理解できないというだけで。

「なんとも、健気なことだろう? どうだい、最愛の兄にここまで想われている感想は?」
「…………」

 カルロくんは、何も答えなかった。
 聞こえていないのか、言葉が通じていないのかと疑わしく思えてくるほど無反応だ。

「君たちが救いを求めて伸ばした腕は、彼にとっては刃を突き付ける脅迫も同然だったんだよ」

  無視されても、ミコトさんは構わず僕にも話しかける。

「差し詰め、彼は人質だ。『我々の願いを叶えなければ、弟がどうなっても知らないぞ』、とね」
「…………」

人質だなんて──ロヴィにしてみれば確かにその通りなのかもしれないけれど、僕たちは誰もわざと彼にそんな非人道的な要求を押し付けてきたわけではない。
事情を知らなければ、そしてそこに自分を救う術を持つ誰かがいれば、助けを求めてしまうのは不可抗力だ。

「なに、気に病むことはない。あれはただ自分の撒いた種の後始末をしているだけだ。大体、彼の願いのせいで黒い靄が生まれてしまったんだ、その責任は負わなければいけない。そしてそれはあの子自身も理解している……だから彼は、救いなんて求めていないだろう?」

 救いなんて求めていない。
 それは、僕たちに対して一線引いたような態度で接するロヴィの態度そのものだ。

「……でも、待ってください。だってロヴィは……ロヴィだってただ願っただけだ。黒い靄は人の、僕たちみんなの願いによって生まれるんだって、そう言ってた……。ロヴィだけが悪いなんてそんな……」

 願いを叶えた代償は、人の願いを聞き届けるという形で今も支払い続けているはずだ。どうして、黒い靄の発生までロヴィのせいになるんだ。
 それ以上に、まだ何かがあるのだろうか。

「たまたま、ロヴィの願いが最初だったっていうだけ、で……」

 ──違う。何かがおかしい。僕は何か思い違いをしている。
 自分で言っていて、違和感が拭えない。ロヴィは、一体。

「まあ君の言うことも間違ってはいないが……ふむ。世界の法則が変わった、と言えば理解できるかい? あの日、それまでの普通の世界から、『人の願いによって黒い靄の発生する』世界に変わってしまったのだと」

 世界の法則、ルール。

「たとえば、リンゴの実は枝から離れるとどうなる? 考えるまでもない、落ちるのさ。それくらいに当たり前の、根本的とも言える法則のことだ。君たちの世界は、そんないくつかのルールの上に成り立っている」

 僕たちが普段意識もしないような、この世界を生きる上で大前提としている決まりごと。

「それがあの日、たった一人の少年の願いを叶えるためだけに、歪んだ。歪めなければ、叶えられなかったからだ。そしてその日を境に、世界の理は丸ごと改変されてしまった、というわけだ」



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