褪ロラ 2 ロヴィに、嘘を吐いてしまった。 気持ちの悪い、不快な汗が、じっとりと僕の背中を湿らせている。 罪悪感が嵐のように、胸中に渦巻いていた。少し様子が変だったとはいえ、僕は今、大切な友達を偽ってしまったのだ。鉛の塊を飲み込んだみたいに、お腹の底がずしりと重かった。 一方で、僕は漸く理解していた。 解放され、一息吐いて、やっと自分の抱いていた感情の正体を知った。 ――怖かったんだ。 僕はあのロヴィに、彼の纏っていた空気に、恐怖していた。 否、恐怖ともまた少し違うだろうか。ただ一つ明確なのは、この強烈な忌避感である。 張り詰めて、刃物の切っ先のように鋭く研ぎ澄まされた雰囲気は、まるで別人のものだった。 両手を合わせて、握り込む。 背中に籠る熱とは裏腹に、指先はひんやりと冷えていた。 馬鹿みたいに戸惑っていた。取り乱していた。 こんなぐちゃぐちゃな気持ちのままでは、アキくんの病室に戻れない。ロヴィの顔をまともに見られない。誰にも会いたくなかった。 一旦どこかで、心を落ちつけて――。 けれど、僕に行く当てなど、どこにもないのだということに気が付いてしまった。 僕はこの時、初めて記憶のないことに不安を覚えたのだ。帰る場所が、わからない。ロヴィとアキくん、エルドさん。彼らのいる場所以外に、第五支部以外に、帰る場所がないのだ。 家族も友達も、普通の人なら持っているはずの人間関係の一切が、僕には存在していない。人と人との繋がりを、たった三人分しか結べていないのだから、当然だ。そしてその三人の誰とも、強く、深く結びついているとは言い難かった。 勿論、僕たちは家族ではない。けれど、友達だとすら思ってもらえていないかもしれない。たった一カ月にも満たない期間、一緒に過ごしただけの間柄である。僕にとっての一カ月は、僕の記憶にある限りの人生の全てだけど、彼らにとってはそうじゃない。長い人生のうちの、たった一カ月だ。 重さが、まるで違う。 どうして、今まで気付かずにいられたのだろう。僕と彼らの関わりは、こんなにも脆かったのに。 「…………」 無意識に、ひたすら足を進めていた。歩き回って、ふと見上げれば、空の病室が目に留まった。がらんと広い病室は、人の気配はもちろん、その痕跡すら全く感じさせなかった。 ベッド脇のネームプレートだけが、忘れ去られたようにぽつんと遺っていた。 イーヤ、とだけ書かれているそれに、僕はあの日の見知らぬ少女の名前を知った。 ――それだけだった。 空っぽのベッドに、なぜか無性に胸が苦しくなった。 見ていられなくなって、体ごと目を逸らした。 それから暫く宛てもなく歩いて、行く先々で目にする真っ黒な患者の姿に、そこかしこに漂う黒い靄に、気が滅入った。 どこにも行けなかった僕は、結局とぼとぼとアキくんの病室に帰って来てしまっていた。 肩を落として力なく引き戸を開ければ、アキくんと目が合った。 「――あ、やっと戻ってきた」 「た、ただいま……」 アキくんの声に、ロヴィが顔を上げる気配がした。枕元で、何か手を動かしていたみたいだ。 意を決してその目を見詰め返せば、いつものロヴィが屈託なく笑っていた。 「よう、遅かったな。おまえもやる?」 「え……」 戻るのが遅くなったことについてはさらりと流して、差し出されたのは赤い折り紙だった。小さな机の上には、色とりどりの折り鶴の群れが整然と並んでいた。そのどれもが翼を大きく広げ、嘴を、尾を、鋭くも美しく伸ばしている。 「……これ、もしかしてアキくんに?」 折り紙で鶴を折って、千羽連ねたものに願を掛ける――千羽鶴のことは、僕も知っている。 「一応な。まー所詮こんなの、気休めでしかねえけど」 気休めと言う割には随分熱心に折っているし、とにかく上手い。そして早い。 爪を使ってしっかりつけられた折り目も、歪みなく重ねられた角も、手本のように綺麗だった。 「器用だよね。嘴とか、ここまで綺麗に尖らせるの、結構難しいと思うんだけど」 「慣れ、慣れ。ちょっと練習すりゃ、誰だってこのくらい出来るようになるぜ」 アキくんが鮮やかな青い鶴を一羽、摘まみ上げて言うと、ロヴィは軽く笑った。 意外な特技だった。体を動かすのが好きなロヴィと、じっと机に向かって作業をするというイメージは僕のなかでなかなか結び付かない。 ――けれど、この光景は。 再びの、強烈な既視感に視界がぶれる。 僕はこの鶴たちを、もっとたくさんの夥しい折り鶴の群れを、どこかで見ている。 僕の寝かされていたベッドとアキくんのベッドとの間にもたもたとパイプ椅子を広げて、僕はロヴィと反対側に座った。 「……そういえば、エルドさんは?」 「話があるって、先生に連れて行かれたよ」 「連れて行かれたって……大丈夫かな」 場所が場所なだけに、僕は少し不安になった。 支部長を名乗っていた男は、もう僕たちに危害を加えることはないと言っていたけれど、エルドさんに対する彼の態度は、あまり良いものではなかった。 エルドさんは組織の人たちとあまり上手くいっていないみたいだから、少し心配だった。 「大丈夫だって! ただの医者だったから、心配しなくていいぞ」 エルドさんはアキくんの主治医にあたる人に、経過について聞かされているところだった。 ロヴィがそう言うのなら、間違いないだろう。 組織と関わってきた期間は、誰よりも長いのだから。 ――コン。 ノックの音が響いた。 返事を待たずに、するりと扉が開けられる。 そこには、ノエルくんがいた。 思わず息が止まりそうになった。誤解を招きかねないが、断じて嫌っているわけではない。ただ少し、苦手なのだ。 彼の纏っている静かな雰囲気も、物腰の柔らかさも。 ノエルくんを見て思い出す出来事は、未だ苦く僕の劣等感を刺激する。 「呼び出し」 「…………」 短い言葉に、ロヴィが黙って立ち上がって、 「あと、君も」 「……え? 僕?」 みんなが驚く中で、ロヴィと一緒にアキくんの病室を後にした。 ロヴィは黙っていた。 僕はただ、ノエルくんの首に掛けられたイヤフォンのコードが揺れるのを見ていた。 [*前へ][次へ#] |