褪ロラ
6
唐突に、その彼が動き出した。生命力を欠片も感じさせない、物のような気配のままで。
実際のところ、その動きはとても緩慢で、唐突さなどとは全くの無縁である。けれど無意識に、どこかで彼を人と認識しておらず、「動くはずがない」と思っていたのかもしれない。
だから僕は、そんな彼の挙動に狼狽えた。
そして、彼が無気力に歩み寄って来る様を、ただ呆けたように見詰めていた。
僕の真正面、間近で足を止めた彼を見てさえ、僕はロヴィによく似た精巧な人形を前にしているのだと錯覚した。
――トン、と。
「…………な、」
いつの間にかその指先が、僕の鳩尾辺りに触れていた。
すらりとした白い指先が胸元に突き立っている様子を見下ろして、僕は既視感を覚えた。
――そうだ。あれは、ロヴィに。
たちまちそれは、別の強い感覚に押し流される。
体の中心に通っている、何か芯のようなものを、無理矢理に引き抜かれる感覚。
指先一つ動かせないまま、息を止めてその感覚に耐えていると、いつの間にか彼の白い手のひらに、蠢く黒い物体が載っていた。不安定で不規則な動きを繰り返すそれは、僕の武器。
暗い銀の視線が、そこに落とされる。無言で見つめること数秒。彼は何事もなかったかのように、手のひらを翻した。途端、僕は僕の中の空白が、元通りに満たされるのを感じた。
勝手に抜き出され、連れ去られた僕の相棒は、どうやら無事に返してもらえたらしい。
「…………?」
僕は鳩尾の辺りをさすりながら、頭一つ分背の高い彼を見上げる。
今の一連の行動で、この人は一体何がしたかったんだろう。
彼はただ無気力に、無造作に、僕を見下ろす。薄い唇をほんのわずかに動かして、最低限のボリュームで言った。
「おまえ……」
声すらも、同じだった。ただ、そこにはおよそ感情らしきものが載せられていない。
ロヴィと同じ声で、けれど彼なら絶対に出さないような声を聞くのは、なんとも奇妙な心地だった。
「……”何”だ」
「…………」
その抽象的にすぎる問いの意味するところは、全くの謎だった。
それこそ、”何”を問われているのかさっぱりわからない。答える術を持たない僕は、硬質な光を湛える銀を、ただ見つめる。
更なる追及があれば、僕の理解も彼の思考に追い付いて、望む返答が出来るだろう。そう思って、僕は待った。けれど、待てども彼は、表情をぴくりとも動かさず、本当に人形のように微動だにせず立ち尽くしていた。重さのない代わりに、終わりのない沈黙がもたらされる。膠着した事態に先に焦れたのは、なんと僕の方だった。これまで急かされた経験はあれど、急かした経験のない僕の、初めての催促である。
無言で、しかし訴えかけるように、僕は瞬きすらほとんどしない端正な顔を凝視した。
「…………」
す、と銀色が細められたのを最後に、僕の視界は遮られた。
「い、いたっ……、いたたたた」
“彼ら”は、力加減までそっくりだった。
いつの間にか僕は頭を捉えられて、無茶苦茶にかき回されていた。雑な手つきで遠慮も配慮もなく力を込めるものだから、ぶちぶちと何本も僕の髪の毛が引きちぎられていく音がした。さすがに見た目にもわかるほどの量は抜けていないだろうが、それでも毛根を痛め付けるのはやめてほしかった。
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