走って走って、
▼遠い日の約束の続き。
あなたという風を見失って毎日をずっと、一人慌ただしく過ごしていた。
それでも、この青い空を見上げれば、いつだってあの声を聴くことが出来た。
“ずっと傍にいます”と笑った君の声に押されて、私は今日も走り出す。
「さぁ、行きますよ」
明治5年、春。
東京と名前を変えられた江戸の町は、昔と変わらず今日も人々の明るい声があちらこちらで交差する。
そして、その中にある一人の小さな影。
「おセイちゃん、今日もお仕事?」
「うん、女将さんもご苦労様です」
いつもいつも大変だねぇ、と呟くように言う女性に彼女は慌てて首を振った。
「いいんです!私には動いている方が性に合ってますから」
今の私は富永セイ。
神谷清三郎はもう、いない。
「おやすみなさい」
愛しい人に別れを告げた後、私は武士姿のまま北の大地へと向かった。
そこで迎えてくれた人は、私の姿を見て酷く驚いていた。
「神谷!?」
襖が壊れるんじゃないかと思うくらいの勢いで、新選組の鬼は部屋に入って来る。私は彼に向かって静かに頭を下げた。
「ご無沙汰しております、副長」
“副長”という言葉に懐かしさを感じた反面、その凛とした姿に土方をはじめ他の隊士達は総司の死を悟った。
江戸を出立する間際にみた、病で痩せ細った沖田の身体。そして、まるで陽の光に透けるような透明な笑顔。
それらが今ありありと思い出せる。
「―――なぁ、神谷」
頭を下げたまま面を上げようとしないセイに向かって土方が語りかける。
「総司は笑って逝ったか?」
ハッとしたようにセイが顔を上げる。その瞳には先程までの凛々しさはない。
「何、故…」
「分かったのかって?俺は総司の兄貴分だからな、それぐらい嫌でも分かるぜ」
だから、と少し間を空けて、土方は意地悪そうな笑みを浮かべた。
「お前が責任を感じる必要はない」
「…」
「総司の傍にいろ、と命じたのはこの俺だ。お前はよくやってくれた、礼を言う」
そう言い、土方はセイの頭を撫でる。そこにあった月代はもうない。
「総司は幸せだった。幸せに笑って逝けた。お前はあいつを救ったんだ」
「あなたが傍にいてくれて、私は幸せな時間を過ごせました」
最期に笑ってそう言った彼の人の言葉が蘇る。もう泣かないと決めたはずの瞳から、ぽろぽろと温かい雫が頬に零れ落ちた。
「先生が言ったんです…。幸せな時間が過ごせましたって」
「…そうか」
鳴咽が漏れ、涙はさらに量を増す。
土方は静かにセイに歩み寄ると、そっとその小さな背中を撫でた。そしてセイの背を撫でながら、ふっと僅かに微笑んだ。
「神谷清三郎。元新選組隊士として、総司の代わりに俺の傍にいろ。…よく頑張ったな」
その言葉がどれほど嬉しかったか。
最愛の人を失い、北の地に着くまで、誰にも頼ることなく生きてきた。大切なものを失くして私は自ら泣くことを禁じたりもした。
強くあらねば、と心に蓋をして。
だけど…本当はね、
私は誰かに“頑張ったな”、ただその一言を。“泣いてもいい”ただ、その言葉を待っていたのかもしれない。
あれから、5年。
新選組はもう、存在しない。
全ての戦いが終わって、私は一人この地に戻ってきた。ここは最期に愛しい人と過ごした大切な場所。
「おセイちゃん、行くよ」
「はい!」
松本法眼の仲介で、私は産婆として働いている。
幕末、私はたくさんの命を奪った。
私はそれを罪とは思っていない。皆、それぞれの誠を貫いて必死に生きていたと思うから。
だけど、やっぱり少しも罪とは思っていない、とは言えなくて。
だから私は、あの頃に殺めた命の償いとして、今を生きている者として。新しい時代の担い手となる命を生み出す仕事についた。
ねぇ、沖田先生。聞こえていますか。
私は今を精一杯 生きています。
あなたが最期に願ってくれたように、女子として生きて産婆をすることにしました。
今でも空を見上げると、風に乗ってあなたの声が聞こえます。
私、頑張って生きてます。
今はまだ、沖田先生に近藤局長に土方副長に。尊敬するあなた方にはまだ、手を伸ばしても追い付けないけれど。
いつの日か、私が私の人生を全うしたとき、その時は笑って迎えてくれますか?
その時。さわり、と風が彼女の周囲を舞った。
―――もちろんですよ。
風の音に紛れて懐かしい声を聞いた気がした。
彼女は幸せそうに微笑むと、そこにあった桜の木を見上げた。
―それは、いつかの約束の木―
私も先生と過ごせて、幸せでした。
09/02/24
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