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古の恋人《10》


 〜 朝 〜


 雪溶け水が小川の嵩を増す。さらさらと流れる生まれたての水の音で、目を覚ましたルシア。布団の外は凍る様に寒く、手を埋めて寝返りをうつ。

「――ん……」

 暖かさを分け合おうと、ルシアは隣の布団に手をかける。そして、思わぬ事態に開眼した。

「――え? ……ルーン?」

 そこにいるはずの女がいない。何故? 確かに昨日そこに寝たはず……。

「…………まさか」

 ルシアは嫌な予感がして、布団から飛び起きた。台所にも居間にも見当たらない。朝に弱いルーンが早朝から出かけるはずもない。だとすれば、考えられることは一つ。

「……去って……しまった……」

 昨日おかしな事をしてしまったから、ルーンは自分の想いに気づいたんだ。そして、何も言わずに離れて行った。

「そんな……ルーン!!」

 ルシアはなり振り構わず家を飛び出した。ルーンは風、世界を自由に飛び回る精霊。今更追いかけた所で、逢えるはずもないけれど。追いかけずにはいられなかった。

「ルーン! ルーン!!」

 ルシアは叫んだ。まだ朝日も出ていないというのに。

「ルーン……私は……私は……」

『何だ? 呼んだか?』

「――――!?」

 声がして、ルシアはがばっと顔を上げた。その反応が俊敏すぎて、ルーンは少し驚いた顔をする。

『お前起きるの早いなぁ。あ――…寒かったからか』

「え? いや……ルーンこそ」

『私は雪が溶けるのを見たかっただけだ。ほら、見てみろルシア、畑の雪がみんな溶けたぞっ』

 ルーンは子供の様にはしゃいでいた。昨日まで真っ白だった数キロ先の畑まで、今日になってほぼ全てが溶け出し、情景は一変していた。その変化に心躍らせるルーンは、興奮しすぎて背中に羽が出ていることも気づかなかった。

 朝日が昇る。眩い光が大地を照らし、雪の白に反射して全体が耀いて見えた。その中で、美しい金の天使が微笑んでいる。

「ルーン……」

 ルシアは呟いた。
 もう、覚悟は出来ている。
 誰に何を言われようと、その先にどんな辛い別れが待っていようとも、彼女を手放すことだけは、出来なかった。

『ルシア! お前もこっち来てみろっ、すっごいキレイだぞっ』

「……」

『ルシア? どうかしたか?』

 ルーンはルシアの顔を覗く様にかがんだ。

『うわっ!?』

 その瞬間に、ルーンの体は前方に引き込まれた。
 ルシアの胸に抱きとめられ、そのまま彼の腕に包まれる。

『ルっ、ルシア!?』

 気が動転しているルーンは、ルシアの顔を見ることすらできない。おどおどするルーンが可愛くて、ルシアは更にきつく抱きしめた。

「ルーン」

 ルーンの耳元に低い声を落とす。
 ルーンの体がぴくりと反応した。


「ルーン、結婚しよう」


 その言葉に、ルーンを取り巻く時間は止まった。
 静かに、鳥の囀りだけが聞こえてきた。

『え……?』

 今のは聞き間違い?
 まさかそんな、ルシアが。
 そんなことを言うはずがない。
 そう疑うルーンの瞳は揺れていた。

「愛しているんだ、君を」

『ルシア……?』

 目の前にいる男はこんなに真剣な顔をする奴だったろうか。そんなどうでも良い事を考えながら、確実にルシアの瞳に囚われていた。

「ルーンがね、私と居る事を凄く躊躇っているのは知っていた。けれど……私は君を自由にしてやれなかった。どうしても離れたくなかったんだ」

『だ、だってっ、私は……』

 私は精霊だ。そしてお前は、人間だ。
 いや、それだけなら良い。
 お前は精霊界を支配する絶対的なる覇者、精霊の王。
 どうして許される? 仮にも古時代からの生き残りがたった一人の人間を愛すなど、愚か過ぎる。
 その事を知ってか知らないでか、お前はそれを望むというのか。

「ルーンを愛しているんだ。君が何者でも関係ない。ただ、いつか君を残して逝ってしまうことだけが、やるせなくはあるけれど」

『――っ!』

 ルシアの言葉に込み上げてくる何かを感じたルーンは、口元に手を当てて声を押し殺した。
 愛しているの一言がとても嬉しいと思う反面、悲しくもあった。
 世界の大きな流れの中で人の一生など一瞬にすぎない。
 愛すれば愛するほどその先にある最期の別れが辛くなる。
 それが分かっていて、それでもその手を放せなかったのは。

 一瞬でもいい。
 愛する者と共に生きたかったから。

『ルシアっ……私、私っ!』

 ルシアの優しい眼差しに包まれ、暖かい腕に抱かれて、愛する心に触れられて。
 ルーンは最上の幸福を感じた。

 風が、この世に生まれ出て初めて知った、愛の深さ。
 何ものにも変え難い一時の高揚、快感。
 それを教えてくれたのは、後にも先にも彼だけだった。

 誰よりも優しい貴方を、何よりも強い心を持つ貴方を、狂おしい程愛していた。


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