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その他
【サマーウォーズ】置いてけぼりのヒマワリ【侘夏+栄】
 登り坂の向こうに、大きな入道雲が広がる。
 この辺りは東京に比べると、空気が綺麗なのだろう。同じ空のはずなのに、空の青さがずっと鮮やかで、澄んでいる様だ。
 そんな青空によく映える白い雲を目指して、親子三人を乗せた赤い軽自動車は坂道を登り始めた。

「夏希、危ないから座ってなさい」
「だいじょうぶっ! それよりもっと早く早くっ!」

 後部座席にいる夏希は、運転席に座る父と助手席に座る母の間から身を乗り出すと、輝くような笑顔で坂の彼方を見つめた。
 早朝から、長時間の車の移動は8歳の少女にはかなりの負担になるはずだが、まるで疲れた様子が見られない。高速に乗っている間ずっと眠っていたせいもあったが、もうすぐ目的地に到着することが嬉しくて、大人しくシートに座っていられないのだ。
 やがて、右手側に大きな瓦葺の門の屋根が見えてくる。瓦のあちこちに多少の苔が生えた姿は、古くからこの地に建てられてきたことを物語っていた。
 それが視界に入った途端、夏希の目は更に輝きを増した。

「見えた!」
「夏希、頭ぶつけるよ」

 跳び跳ねてはしゃぐ娘を、苦笑しながら父はたしなめる。
 そんな父の言葉も虚しく、跳ねることを止めなかった夏希は布張りの天井にゴツンと頭をぶつけた。

「いたた……」
「言ってる側から……。慌てなくたって、お家は逃げないよ」
「だって〜」
  
 毎年8月を目前に控えたこの季節。普段は夏希の曾祖母に当たる栄と、その娘の万理子、そのまた娘の理香の三人しか住んでいない大きな武家屋敷は、大変にぎやかになる。
 8月1日は、陣内家16代当主であり、みんなが大好きな栄おばあちゃんの誕生日。それを祝うため、全国に散らばった子供や孫達、曾孫たちが集まってくるのだ。
 親戚が集まるこの季節を、夏希は何よりも心待ちにしていた。それこそ夏休みに入った途端、帰省の準備を始めてしまったくらいだ。
 『夏希ちゃんは暑いのに元気いっぱいね。夏生まれだからかい?』
 この前、近所のおばさんにそう言われたことがあるが、それは半分正解で、半分は間違いだった。
 会いたい人に会える。
 そのことが楽しみで仕方なかった。

「だって、早くおじさんに会いたいんだもん」

 むくれる娘の姿を、母は悲しそうに見つめた。
 父はバックミラー越しに確認し、困ったように視線を、隣に座る妻へと向けた。

「そう……」
「わたしね、おじさんといっぱい遊んでもらうんだ! あとね、作文も読んでもらうの!」

 痛みが引いたのか、夏希は無邪気に笑うと、ピンクのリュックサックからノートを取り出すと、中に折りたたんではさんでいた作文用紙を取り出し、開いて母に見せる。

「いっしょうけんめい書いたから、きっとよろこんでくれるよねっ?」
「……おばあちゃんの家に着くまで閉まっておきなさい、破いたら困るでしょ」
「うんっ」

 母に促されるまま、夏希は作文用紙を元通り折りたたんで、ノートに閉まった。
 母は、夏希に優しく微笑みかける。

「昨日、万里子おばさんから電話で聞いたけど、畑の野菜や果物、今年も豊作だって。楽しみだね♪」
「本当? わたし、ナシ食べたい!」
「あはは、お昼のデザートにナシ剥いてくださいって、一緒に頼もうか?」
「うんっ」

 母と夏希がおしゃべりに夢中になっている間に、車は門の前に着いた。

「着いたー!」

 リュックサックのベルトを掴むと、夏希は勢い良く外へと飛び出す。そしてそのまま脇目もふらず、屋敷へと駆け出した。

「夏希、こら待ちなさいっ」

 母の声は、夏希には届いていなかった。今の彼女の中にあるのは、ここでの楽しい思い出の数々、そして再会への喜びのみ。心が促すままに、前へ前へと踏み出した。

「雪子、僕は車を停めてくるから」
「和雄さん、お願いね。夏希、ちょっと待ちなさい!」

 早口で夫に頼むと、母は慌てて娘の後を追いかける。しかし肩にかけたパンパンに膨れた旅行用バッグが邪魔をし、ようやく娘の腕を捕まえたのは、彼女が屋敷の玄関に飛び込むとほぼ同時だった。

「こんにちは〜!!」

 腕を掴まれたことなど無視して、少女は元気よく挨拶をする。
 すると奥から、大叔母の万里子が出てきた。

「いらっしゃい、雪子、夏希」
「こんにちは〜!」

 正月以来、久しぶりに会う姪親子に、万里子は微笑み返す。

「いらっしゃい。和雄さんは?」
「裏の駐車場に車停めてる」
「そう。お疲れ様、今お昼ご飯の準備してるから、上がんなさい。おばあちゃんはまだ帰ってきてないけど、少し遅くなるみたいだから先に食べましょう」
「は〜い」

 雪子は靴を脱ごうと、夏希の手を放し、自分のパンプスに手をかける。
 しかし夏希は、靴を脱ごうとはしない。キラキラと輝いた表情で、大叔母を見つめている。

「ねえねえ、まりこおばさんっ」
「なに、夏希?」
「わびすけおじさん、もう来たっ? ねえ、もう来てるっ?」

 その途端、万里子の顔が引きつる。

「わびすけ……かい?」
「うんっ。もう来た、わびすけおじさん?」

 夏希はなおも、目を輝かせて尋ねる。
 引きつった顔を夏希の母親である雪子に向けると、彼女は苦笑いを浮かべてこちらを見ていた。

「雪子、お前まだ教えてなかったのかい?」
「ん〜、ちょっと言いづらくて……あはは」
「あははじゃないわよ、まったく……」

 万里子はため息をつくと、改めて夏希を見下ろす。そして、どうしたものかと考えを巡らせた。
 相手は、まだ8歳になったばかりの少女だ。どう話せば、彼女を傷つけずに理解させることができるのか。自分の苛立ちをぶつけることなく、上手く話すことができるか。
 嘘をつくことは嫌いだ。8歳児に対して、自分の信念どうこうと悩むことは、馬鹿げているかもしれない。しかし、この子も陣内家の一員だ。遅かれ早かれ、真実を知ってしまうだろう。それならば今、まだ日の浅い今のうちに教えてしまった方がいいだろう。
 彼女を傷つけない様に、上手く言葉を選んで答えなくては。

「おばさん?」

 夏希が首をかしげる。

「侘助はね……」
「うん?」

 そもそも、こんな所で立ち話しながら教える内容ではない。きちんと腰を落ち着かせて、彼女と向き合って話そう。万理子がそう考えた時だ。

「雪子姉さん、夏希〜、いらっしゃい」

 いつまでも戻ってこない母が気になったのだろう。理香が奥からやって来た。

「久しぶり〜、理香」
「リカおばさん、こんにちは〜」

 万里子の心配など全く知らない理香は、久しぶりに会う従弟姪の元気な姿に顔をほころばせながら、三人の元へ近づいてくる。

「ねえ、リカおばさん」
「なぁに、夏希?」
「わびすけおじさん、もう来た?」

 その途端、理香は人が変わったように、目を吊り上げて怒鳴った。

「来るわけないでしょっ、侘助なんかっ!! あんな奴っ!!」

 怒り狂う理香の姿に、万里子と雪子は焦りの色を見せる。
 そして夏希は大きく目を見開き、ただ理香を凝視した。
 万理子から『瞬間湯沸し器』と揶揄されるくらい、理香は短気な一面があるが、こうも怒りを露にしている姿を、夏希は見たことが無い。まるで別人の様だ。
 震える声で、少女は尋ねた。

「どうして……? どうしておじさん来ないの?」
「来れるわけないでしょっ、うちの財産持ち逃げしておいて、どの面下げてうちの敷居がまたげるって言うのっ!?」
「ざいさん?」
「お金よ、お金!!」
「理香、やめなさい」

 万里子が厳しい声で止めるが、怒りのスイッチが入ってしまった娘の口を止めることはできない。
 理香は尚も声を荒げた。

「侘助ったらね、陣内家の大切な土地の権利書を盗んだあげく勝手に売り飛ばして、その金持って逃げたの!! 最低よ!!」
「おじさん、ドロボウしちゃったの……?」
「そうよっ、泥棒よっ!! 盗人よっ!!」

 理香の怒鳴り声に、夏希はビクッと身を縮ませた。
 難しくて言葉の半分くらいしか理解できないが、大好きな侘助が悪いことをした。陣内家の大切なものを盗んで、どこかに行ってしまった。それだけは理解できた。
 しかし言葉は理解できたが、信じたくなかった。

「お母さん、ウソ……だよね?」

 夏希は恐る恐る、母に尋ねる。
 母はゆっくりと娘を見下ろす。いつもならふにゃりと大らかに笑って娘の不安を優しく吹き飛ばしてくれる彼女であったが、今は寂しそうに笑うだけだった。
 理香おばさんの言っていることは本当なのだ。そう思い知らされた夏希は、呆然と母の顔を眺めた。
 どうして悪いことをしたのだろう? どうして何も教えてくれなかったのだろう? せっかく会いに来たのに。
 会ったら一緒にご飯を食べて、一緒にお祭りにも行って、たくさん遊ぶつもりだった。一生懸命書いた作文を読んでもらうつもりだった。宿題も教えてもらうつもりだった。
 それなのに、どうして? どうして? どうして?
 わからないことが頭の中をグルグルと廻って、どんどん大きくなっていく様だ。
 いよいよ頭の中がグチャグチャになってしまい、夏希はついに泣き出してしまった。

「うわぁぁぁぁぁぁんっ!!!」

 その大声に、ようやく理香は我に返る。

「やだ私、子供相手に……」
「今更遅いわよ。まったく、頭に血が上ると見境が無いんだから」

 うろたえる理香の姿に、万里子はため息をついた。

「うわぁぁんっ、ひっく、ウソ……ウソ…ぉっ!」

 泣き声に気付いた親戚たちが、慌てて奥から何人も走ってきた。
 雪子はどうにか泣き止ませようと、娘を抱き締めてそっと頭を撫でる。
 その腕の中で、夏希は泣き続けた。頭の中のわからないことを全て涙と一緒に流してしまうように、とにかく泣き続けた。



◆◇◆◇◆





 侘助が出ていったのは、2月の晴れた日の事だった。
 少し暖かくなってきたと感じた矢先、再び冷え込みが強くなった。そんな日に、連絡も無しにふらりと実家に帰ってきた。そして2日後の夕方、煙草でも買いに行くかの様にふらりと出ていき、そのまま帰って来なかった。
 万里子が、陣内家が所有する土地の権利書が無くなったことに気付いたのは、その日の晩のことだ。
 かつて栄の夫の金遣いの荒さによって、財産のほとんどを手放す事になった陣内家だが、その中でどうにか手元に残った虎の子の財産である権利書だ。
 それを盗むなんて、一体何を考えているのだろう。
 本家として財産管理に頭を悩ませていた万理子と、そんな母の話し相手によくなっていた理香は激怒した。それでも身内の恥を晒す様なものだと、警察に届け出なかっただけ、まだ冷静さは残っていたのだろう。
 大騒ぎする娘と孫とは対称的に、栄は黙って、家紋の入った漆塗りの書類入れの中を見つめていた。
 その目は厳しくもあり、寂しげでもあったそうだ。



◆◇◆◇◆





 長い時間を得て、泣き声はすすり泣きに変わった。
 流した涙と一緒にわからないことは少しも減ってくれなかったが、今は悲しい気持ちの方が強かった。
 通された奥の間の畳の上に小さく丸くなって、夏希は静かに泣き続けた。涙はまだ止まらない。ポケットに入れていたハンカチで目を覆って、いつまでも泣き続けた。 
 その側に三人の少年が腰を下ろし、心配そうに彼女を見つめている。三人とも、夏希の又従兄弟達だ。

「元気出せよ、夏希ぃ」

 又従兄達の中で最年長の翔太が、大声で夏希を励ます。やんちゃ盛りの翔太は、とにかく元気づけようと必死だった。

「そうだぞ、なつき。あっち行ってみんなで昼メシ食おうぜ」

 その隣に座る同い年の又従弟・了平が、日焼けしたソバカスだらけの顔で精一杯笑ってみせる。

「ねえたん、ごはん〜」

 その隣で、幼い又従弟・佳主馬が、腕に大きなウサギのぬいぐるみを抱いたまま、舌っ足らずな口調で彼女に呼びかけた。
 しかし夏希は、床に伏せたまま顔を上げようとしない。すすり泣く声も止まなかった。

「メシ食ったら元気になるぞ、もう泣くなよ」
「今日はさ、母ちゃんがソーメンだけじゃなくて、ナスみそいためも作ったんだ。うまいぞ〜」
「いい、食べたくない……」
「ああ、もう!」

 顔を上げようともしない夏希に焦れた了平が呻く。初恋もまだ経験していない少年からすれば、誰かを恋い焦がれる気持ちも、想い人がいなくなって負った深い心の傷も、理解し難い。又従姉が泣いているのは悲しいが、その苦しみまでは理解できない。それ故に、上手い慰めの言葉が出てこない自分にも苛立ちを覚えた。
 しゃくり上げながら呟く夏希の様子を伺おうと、佳主馬がペタリと寝そべって、彼女の顔を伺う。

「ぽんぽんいたいの?」
「ほっといて……」
「ねえたん? ねえたん? ふぇ…っ」

 会えば自分と遊んでくれる、優しい又従姉が泣いている。どうして泣いているのかわからないが、元気がないのは悲しい。
 彼女に釣られる様に、佳主馬は大きな瞳を潤ませた。
 すると翔太が、突然夏希の体に覆い被さった。

「夏希、お前には俺がいるだろ」
「翔太兄……」
「あんなヤツ忘れろ」

 きまった。そう翔太は確信した。
 数ヵ月前に見た、ドラマのワンシーン。夢中になってテレビ画面を見つめる母の後ろを通りすぎてキッチンに向かう際、そのシーンだけチラリと見た。そこしか見ていないので、どんなストーリーなのか、画面に映っている男女がどんな関係なのか全く知らないが、彼にすがりついて泣く女の身体を、男は優しく抱き締める。その姿は格好良いと子供ながらに感じた。

(これで夏希は泣き止む。そして俺にホレる――!)

 夏希に対して特別な思いを抱いている翔太は、こっそりと鼻の下を伸ばした。
 そして、もうひと押しと、台詞を繰り返した。

「お前には俺がいるだろ。あんな奴のことなんか忘れろよ」
「もう……」
「夏希……」

 夏希は体を起こすと同時に、翔太の顔を正面から叩いた。

「もうほっといてぇっ!!!」

 泣き叫びながら、少女は自分を抱き締める腕をハンカチや素手で叩く。

「いてぇっ! やめっ、落ちつけ夏希!!」
「バカッ、バカァ……っ! ショウタ兄ぃなんか大きらいっ!!」
「夏希……」

 想定外の反応にショックを受ける翔太に向かって、夏希は「バカ」「大きらい」と何度も繰り返した。
 そして二人の様子にうろたえる了平の隣で、驚いた佳主馬が釣られて大声で泣き出した。

「うわぁぁんっ!」
「バカッ! バカッ!」
「クソッ……、退却ぅ!」

 夏希から距離を置くと、翔太は弾けるように居間へと駆け出した。

「あわわっ。カズマ行くぞ!」

 了平は慌てて泣いている佳主馬の腕を掴むと、引きずる様に又従兄の背中を追う。

「うわぁぁぁぁんっ!!」
「バカッ! バカ……っ、ひっく、バカぁ……」
「クソッ、クソッ。あのクソ野郎…っ!」

 二人分の足音と、佳主馬と夏希の泣き声を聞きながら、翔太は元凶である男の事を心の中で何度も罵った。



◆◇◆◇◆





 素麺。ナスの味噌炒め。浅漬に、魚の甘露煮。ゆでたトウモロコシ。
 夏らしい食事が並ぶ大きなちゃぶ台を、二人以外の家族全員が囲んでいる。
 一人は夏希。
 もう一人は、午前中から外出している曾祖母の栄。
 二人がいない食卓は、どんよりと重たい空気に包まれていた。

「はぁ、ちびっ子作戦は失敗かぁ……」

 大きなため息をつくと、由美はその反動のごとく勢い良く素麺をすすった。
 その向かいでは翔太と了平が並んで、バツが悪そうに食事に箸をつけている。

「うぅ、ひっく……」
「佳主馬、もう泣かないで。きっと大丈夫だから」

 ベソを掻きながら無理して食べる佳主馬の背中を、母親の聖美が優しく撫でた。

「そもそも子供に任せるのが間違いなのよ。原因を作ったのはこっちなんだし……」

 万里子は茄子を一切れ口に運ぶと、隣に座る娘を静かに見る。
 すると理香は、申し訳なさそうに箸を止めた。

「ごめんなさい、つい……」
「いえ、理香さんは悪くはありません。親である僕達が、ちゃんと説明していなかったのがいけないんです」
「ごめんなさい、迷惑かけて」

 と、和雄と雪子はそろって顔を伏せた。
 夏希がどれだけ侘助を慕っているか、親である自分達が一番知っている。知っているからこそ、まだ幼い娘が傷つかない様にと黙っていたが、それは間違いだった。食事も拒否して泣き続ける娘の姿を、二人は初めて見た。
 万理子はため息をつくと、箸で素麺を摘み、そば猪口に入れた。

「しかし、いつまでもこのままにしとくのもね……」
「やっぱり、ばあちゃんに任せる?」

 理一の言葉に、太助が大きく頷いて同意した。

「そうだね。こういうデリケートな問題は、やっぱりおばあちゃんに任せるのが一番だよ」
「そうよね〜」
「おばあちゃん、そろそろ帰ってくるかしらね」

 何人かが、柱に掛けた時計を見上げた時、玄関から「ただいま」という声がした。
 あの落ち着いた声は、栄のものだ。

「帰ってきた!」

 思わず一同は、玄関へと駈け出した。
 箸を置く者、投げ出す者、置き忘れて持ったまま走る者、箸だけでなくそば猪口まで持ってきてしまう者。動作は様々だったが、大人も子供も、全員スイッチが入った様に走った。

「おばあちゃん、お帰りなさい!!」
「ばあちゃん、お帰り!!」
「お帰りっ!! 待ってたぜ、ばあちゃん!!」
「お帰りなさぁい!!」

 勢いに満ちた一同の様子に、栄は一瞬呆気に取られる。が、すぐに楽しそうに笑って、彼らを見回した。

「ただいま、遅くなってごめんね。しかし、随分とにぎやかな出迎えだね。先にお昼食べてるのかい?」

 そう言われて、ようやく自分達が食器を手にしたまま走ってきた事に気付いた者達は、苦笑いを浮かべ、それらを背中に隠した。

「ええ、お先にいただいてました。待ってなくてごめんなさい、おばあちゃん」
「いいんだよ、先に食べていて。雪子も和雄さんもいらっしゃい、よく来たね」
「ご無沙汰してます、おばあちゃん」
「ただいま、おばあちゃん」

 少し深めに頭を下げる和雄と、微笑む雪子に、栄は微笑みかける。

「ところで、夏希はどうしたんだい、姿が見えないけど?」

 その途端、一同の体がピタリと硬直するのを、栄は見逃さなかった。眉を潜めて、再び尋ねる。

「連れて来なかったのかい? いや、そんな訳ないだろう。小さい娘一人置き去りにして自分達だけ来るような真似、あんた達はしないだろうし」
「実は……」

 雪子の言葉に、栄はじっと耳を傾けた。
 そして久しく聞いていなかった名前が出てくると、静かに目を伏せた。



◆◇◆◇◆





 涙は一向に止まらない。
 親戚達が話す声がかすかに遠くから聞こえてくるが、今の夏希にとって、どうでも良かった。
 ただ侘助を思って、泣き続けた。

「おじさん……」

 余程居心地が悪いのだろう。侘助は毎年夏と年末年始には必ず帰ってくるが、あまり他の家族と接することなく、一人でいることが多かった。
 そんな侘助を見かねた栄が、当時3歳だった夏希に、こう頼んだ。

『夏希、侘助の側にいてやっておくれ』

 幼かった夏希は素直に曾祖母の頼みを聞き入れ、彼を構う様になった。毎日の様に遊びに誘い、本を読んでとねだり、食事ができたら彼の手を引いて居間へと向かった。
 そうしていくうち、夏希は少しずつ侘助の事が好きになっていった。
 接していればわかる。この人はいい人だ。冷たく素っ気ない素振りばかりするが、本当は優しい。何故、周りの大人達は彼を嫌っているのか、少女にはさっぱり理解できなかった。
 そうして子供故の純粋さで、彼が築いた心のバリケードを難なくすり抜けてしまった夏希は、言いつけを守る為ではなく、自発的に彼の側にいる様になった。季節が変わって再び上田に訪れた時も、前の季節と同じように侘助の側にいた。
 侘助も、自分に笑いかけてくる幼子を面倒臭そうに出迎えながらも、決して、邪険に扱うことはなかった。

「どこに行っちゃったんだろう……」

 本当に彼は、家のお金を盗んでしまったのだろうか。そんな悪いことを何故してしまったのだろう。
 ふと、昔のことを思い出した。
 まだ幼稚園に通っていた頃。夏希は縁側に並べられた朝顔の鉢の一つを、うっかり落として割ってしまったことがある。
 その時に侘助は、栄の元まで誤りに行く自分について来てくれた。

『どうしよう、しかられちゃう……』
『まあ、悪いことしたからな。そうなるだろ』
『おばあちゃん、おこるかな?』
『さぁな。ちゃんと謝りゃ、ばあちゃんだって許してくれんだろ。夏希、ばあちゃんとこ行って、ごめんなさいしてこい』
『うん。……ふぇっ』
『ほら、行くぞ』

 叱られるのが怖くて泣き出してしまった自分の背中を、押してくれた手の感触は、今も覚えている。
 少し骨張っていて、大きくてあたたかな手だった。頻繁に夜更かしをするせいか、いつもは彼の手は自分よりも少し冷たい。しかしその時は、とてもあたたかく感じた。
 そして、それを思い出すと、余計に辛さが増してきた。

「夏希、」

 優しい声に引き寄せられるように、少女は顔を上げる。

「おばあちゃん……」

 栄は夏希に微笑みかけると、その場に正座をした。
 小柄な彼女が膝を折ると、夏希との身長差がほとんど無くなる。
 栄は近くなった夏希の身体を抱き起こし、その頬を撫でながら、彼女の顔を伺った。

「たくさん泣いたようだね、目が真っ赤だよ」

 あたたかい手の平と眼差し、そして同じくらいあたたかな声に、心が震える。
 夏希は目を潤ませて、曾祖母を見つめた。

「おばあちゃん、おじさん……ドロボウしちゃったの?」

 栄は、静かに夏希を見下ろしている。
 答えが返ってこない沈黙に耐えられず、夏希は矢継ぎ早に尋ねる。

「ウソだよね? ウソだよねっ? リカおばさんがかんちがいしてるだけでしょ? わびすけおじさんはドロボウじゃないよねっ? 悪いことなんてしてないよねっ? ねえ…ねえっ、そうだよね、おばあちゃんっ?」
「夏希、よくお聞き」

 静かになった夏希の大きな瞳を、栄はじっと見下ろした。

「嘘じゃないよ。侘助は土地の権利書を持って行ってしまったんだ」

 尊敬する曾祖母が肯定したのだから、これは紛れもない事実なのだ。改めて突き付けられた真実に、夏希は大きな目を更に見開いた。
 どうしていいのかわからず、震える声で尋ねる。

「……どうして? どうして悪いことしちゃったの?」
「さあね、何も言わずに持って行ってしまった。借金をしてたとは聞いてないけど、大金が必要だったんだろうね」
「わびすけおじさん……悪い人なの?」

 栄は顔を上げると、前庭を眺めた。
 夏希も顔を上げ、曾祖母の真似をする。
 彼女は、遠くを眺めていた。前庭にある大きな池や、その向こうに見える茂みや正門の屋根よりも遠くを。どこを見ているのかわからないが、ただただ、彼方の景色を眺めていた。

「おばあちゃん?」
「悪い人間に育てたつもりは無いよ。あの子はちょっとひねくれてるけど、頑張り屋でいい子だった。それは、お前もよく知ってるだろう?」

 栄が再び夏希を見下ろす。そして少女が大きく頷くと、嬉しそうに目を細めた。

「あの子は昔からね、ちっとも甘えない子だった。何かを欲しがったりしないし、悪さどころかイタズラをする事もなかった。他の子達と同じように分け隔てなく面倒を見たつもりだったんだけどね、いつも遠慮して生きていた」
「『わけへだてなく』って、何?」
「平等、同じって意味だよ。みんな同じ、私の大切な家族だからね」

 そう語る栄の瞳は、優しく穏やかだった。
 自分や父親のことで喜んでいる時の、母の瞳と似ている。何となくではあるが、夏希はそう思った。

「侘助が持っていったものが何か、聞いたかい?」
「うん。土地の『けんりしょ』だって、リカおばさん言ってた」
「権利書って何だかわかるかい?」

 夏希は、首を左右に振る。

「そうかい。わかりやすく言うと、そうだね……。それがあると、陣内家が持っている土地を売ることができるんだ。売ると、お金が入る。夏希も買い物をする時、品物を売っている店の人にお金を払うだろう。それと似た様なものさ」
「ふ〜ん」
「だから、権利書っていうものは大切なものなんだよ。大した土地じゃないけど、それなりの額にはなっただろう」
「やっぱり、悪い人なの?」

 不安そうに夏希が尋ねると、今度は栄が首を左右に振った。

「権利書を入れていた箱にはね、他にもいくつも権利書が入っていた。この家や畑のある土地の権利書もね。でも侘助は、そっちには手を付けなかった。本当に悪い奴だったら、根こそぎ持って行ってしまうのにね」
「『ねこそぎ』?」
「全部ってことさ。金に困っている奴は、いくらでも金を欲しがる。金に飢えているからね。だから全部欲しくなる。それなのに侘助は、全ての権利書を持っていかなかった」

 言い回しが難しかったのだろうか。意味をよく理解できず、きょとんと自分を見上げる少女の髪を、栄は優しく撫でた。

「侘助が本当に悪い奴だったら、この家だって畑だって全部売り払ってしまうだろう。でも、あの子はそうしなかった。この家は残していった」
「それじゃ、おじさんは悪い人じゃないの?」

 栄はニッコリと笑って、頷いてみせた。

「黙って持っていってしまったのは感心しないが、何か事情があったんだろう。もっとも、侘助が相談できないくらい心の壁を壊せなかったのは、私のせいだからね……くれてやったと思うことにしたよ」

 と言うと、再び栄は前庭に目を向けた。
 庭の緑よりも、遠くにそびえる山よりも遥か遠く。
 まるで、誰かの影を探すように。
 そして夏希も、曾祖母と同じように視線を彼方へと向けた。

「夏希、侘助は今ね、アメリカにいる」

 栄の言葉に、夏希は大きな瞳を丸くした。
 慌てて曾祖母の顔を見ると、彼女は楽しそうに笑っていた

「本当?」
「ああ、そうだよ。理一が調べてくれた。今はアメリカの研究施設にいるそうだ」
「ほん、とう?」
「ああ、そこで新しい開発をしているらしい。元気だって」
「本当……だよね?」

 驚きのあまり、何度も訊き返してしまう。
 そんな少女に対して、栄は飽きることなく、微笑みながら何度もうなずき返した。

「ああ、本当だよ」

 すると夏希は、ふにゃりと微笑んだ。ようやく途方もない不安から解放され、するりと力が抜けてしまったのだ。 

「よかったぁ……」

 そのまま、潰れる様に祖母の膝にもたれかかる。
 その様子を、栄は、楽しそうに笑いながら見つめた。

「まったくだよ。それにしても理一ときたら、まるで探偵みたいじゃないか、自衛隊所属なのに」

 栄は、声を上げて笑った。
 その笑いは、孫の活躍に対してか。それとも、大切な息子の安否が判明した事に対してか。
 きっと両方だろう。彼女が豪快に開けた大きな口を見つめながら、少女はそう思った。
 そして、彼女の真似をして、大きく口を開けて笑った。

「おばあちゃん、おじさんの住所わかる? お手紙書きたいっ」
「ごめんね、住所までは知らないんだ」
「え〜、つまんない。りいちおじさんは知ってるかな?」
「黙って出ていったんだ、そっとしておいておやり」
「は〜い……」

 いっぱいお手紙を書いて、持ってきた作文も一緒に封筒に入れよう。そう期待に胸を膨らませたのに、肝心の住所がわからないなんて。
 夏希は、むすりと口を尖らせる。
 しかし、祖母が頭を撫でるぬくもりを心地いいと感じるうち、表情は溶けるように和らいだ。
 そして、ふとある事を思いつき、顔を上げて尋ねる。

「ねえ、おばあちゃん」
「なんだい、夏希?」
「わびすけおじさんが帰ってきたとき、しかるの?」
「アハハ、何を言い出すかと思えば、この子ときたら……。叱りはしないよ、そうだね……」

 栄は首をかしげて、少し考える。
 その顔は微笑んではいたが、どこか寂しそうでもあった。

「お腹いっぱい、ご飯を食べさせてあげたい。あの子は、夕飯を食べずに出ていったからね」
「じゃあわたし、おじさんのごはんよそうのおてつだいするね!」
「ああ、そうしておくれ」

 再び楽しそうに笑うと、栄は夏希を自分の膝から抱き上げ、そのまま立ち上がった。

「夏希、大きくなったね」
「そうかな?」
「そうさ、大きくなった」

 夏希は、曾祖母から身体を離した。
 長いことうずくまって泣いていたせいだろうか。自分の足だけで立って見る景色は、ひどく清々しく見えた。冬休みも、その前の夏休みも、ここには来ているはずなのに。先程、母に抱きかかえられてこの部屋に連れてこられた時も、見ているはずなのに。
 どうしてだろう。少女は不思議で仕方なかった。

「さあ、一緒にご飯食べよう。お腹空いてるだろう?」
「うんっ」

 差し出された手をぎゅっと握ると、夏希は自分から、居間へと歩き出した。


おわり

【あとがき】

約3ヶ月ぶり更新は、お初書きのサマーウォーズです。
金ロでサマウォにハマって約3ヶ月。ようやく書き上がりました。
エスプレイドといいサマウォといい、本当ハマるのが遅いですね、私は( ̄▽ ̄;)
(いや、エスプレイドの稼働から14年に比べると、今もプチオンリーが開催されているサマウォはまだ全然マシですけど)

侘助がいなくなった寂しさを、夏希はどうやって乗り越えたのか。このオーソドックスなテーマに挑戦してみました。
最初はもっと違う話を考えていて、栄ばあちゃんが出てこない代わりに、理一さんと佳主馬が出張ってる話でした(笑)
結局収集がつかなくて、栄ばあちゃんにご登場いただきました。やっぱりばあちゃんは、みんなの支えなんだよって事で。
しかし、栄ばあちゃん書くの難しい。全然雰囲気が出てこなくてごめんなさい。

かなり妄想を膨らませてしまいましたが、子供の頃の曾孫組は書いていて楽しかったです。
きっと翔太は、夏希に大泣きされたせいで侘助の事がもっと嫌いになってしまい、
「夏希泣かせたドロボー(侘助のこと)は、俺がとっつかまえてやる!」
って感じで、警察官を目指すことになった……なんて考えると妙に萌えます(*^_^)

余談ですが、金ロでサマウォが放送された時、出かけててリアルタイムで見ていませんでした。
録画したものを代休取って家にいた日に見たのですが、その日は偶然にも『8月1日』でした(笑)
(2012.10.29)




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