鳳凰戦華伝
弐
馬の足音が軽快に響く。
街道を駆け抜ける馬の一つは荒々しく、もう一つは落ち着いて聞こえた。
「あらら、本当に気性の荒い馬ね」
落ち着いて走る馬に乗っているのは、こちらもまた、落ち着きのある女性だ。
見事な手綱捌きを見せながら、前を走る者にゆったりと声を掛ける。
前を走っているのは荒々しく走る馬だが、彼女が発した言葉はその上に乗る者に向けたものだ。
「全く。少しも人に慣れないらしい。相当、人見知りが激しいか、あるいはただ単に性格なのか」
その馬に騎乗するのは、長い黒髪を持った女性。
冷静さを滲ます瞳だが、荒々しい馬を操るその姿は勇ましいとしか言い様がない。
不敵に緩められた口元が、楽しむように弧を描いた。
ぶんぶんと首を振り回しながら、急停止と走行を繰り返していた馬は、疲れてきたのか、数十分経ってようやく落ち着きを取り戻す。
「よく御したわね。椿」
ようやく大人しく歩きだした馬は、体力が再び回復するまで暫くは落ち着いているだろう。
椿と言う女性は、なに食わぬ顔でその馬に騎乗していたが、それなりに長い間、暴れる馬を相手にしていたのだ。
落馬することもなく、うまくいなした彼女の乗馬の腕には感服する。
彼女はそう思いながら、感心したように言ったのだ。
「さすがに骨が折れたさ」
片手で手綱を握り、おどけたように手を広げた椿は、既に高い太陽を見上げた。
「月下。今日中に着けるか?」
最初から大人しかった馬に騎乗する月下と言う女性は、不意に呼ばれた自分の名を認識するのに数秒時間を要した。
そもそも話すこともあまりない人なので、いきなり声が掛かると驚くものだ。
「さぁ。この辺りで一番大きな村でしょう?今日中には無理じゃないかしら?」
月下も同じように空を見上げながら、日光に目を細めて答えた。
突き刺さるような春先の暖かい光が、瞳を刺激する。
「そうか。……なら、今日中に着くぞ」
「はぁっ?!」
思わずすっとんきょうな声をあげてしまう。
たった今、今日中には無理だろうと言ったばかりだ。
そして彼女も、そうかと納得した様子だった筈だ。
「今日中には無理だろうって言ったわよね?私」
「あぁ、言ったな」
平然と答える。
揺るぎない態度は、本気である事が伺えた。
二の句を告げようとした月下だったが、流石に彼女とは長い付き合い。
こういう時は何を言おうと無駄であることをよく知っていた月下は、早々に反論を諦めた。
「さぁ、行くぞ」
一つ声を掛けると同時に、手綱を強く引く。
勇ましい嘶きと共に、体力が回復し始めた椿の馬は、勢いよく走りだした。
月下もそれに続く。
椿の馬は、未だに彼女を落とそうとしていたが、強い力で手綱を引っ張られ、なかなかその目的を遂行できていないようだ。
馬が抵抗する度に、椿の口元には笑みが溢れていた。
こうした訳で、彼女達が旅立った雪火村から、一番近い大きな村まで、普通なら四日ほどかかるところを、僅か半日で着いてしまった。
「全く、無茶にも程があるわ。日中駆け通しだったじゃないの」
馬の首にもたれ掛かり、愚痴るのは月下。
もたれ掛かられている馬の首が疲れたようにもたげられているのは、確実に気のせいではない。
対照的に、椿は馬と共に平然としている。
動物は飼い主に似ると言うが、もう既に似てきたのか。
しかも馬の方は、隙あらば椿を落とそうとしている。
六時間ほどは駆け続けていたと言うのに、恐るべき体力だ。
既に辺りは暗いが、眼下に広がる村は未だに活気を失わない。
灯が絶えず、人々の往来も多くある。
「賑やかね」
村に降りて、最初の言葉は月下によるこの一言だった。
馬を引きながら人々が通る道を歩くのは、なかなかに困難だった為、馬は既に、宿屋に預けてある。
「人が多いのは苦手だ」
椿は平然と歩いているようにも見えるが、月下から見れば、かなり疲れを感じている表情だそうだ。
そんな人混みが苦手な椿と、実はかなり体力を消耗している月下が、なぜ夜に村を歩いているのかと言うと、単に金稼ぎと情報収集の為だ。
特に特産もないような田舎の村から来た二人は、何分金も無ければ情報も少ない。
そんな訳で、普通の情報が手に入る昼間よりも、夜に出歩いているのだ。
まぁ、この村に着いたのが夜であったため、当然と言えばそれも当然だが。
そうして二人が人混みを避けながら歩いていると、ふとしたところで怒鳴り声が聞こえた。
酒場の前。
この時間、相当の賑わいを見せる、一際人数の多い通りだ。
その酒場には、酔っ払った男が数人、怒鳴り声をあげているのだ。
その様子を、酒場の前で止まった椿は冷めた眼で眺めている。
「椿。地方の役人よ」
その側で、月下が静かに耳打ちする。
周りにいる村民よりも恰幅の良い体と質の良さそうな服が、その男達の裕福さを物語っていた。
「おい!愚民共!俺達のお陰で毎日生きてられるってのに、何だその態度は!!」
「言っとくがなぁ、お前らなんて俺達が殺そうと思ったら簡単に殺せんだからな!」
席を立って歩き回ながら、他の客を殴り椅子を蹴り机を蹴り、それはもう嵐のように店内を荒らしていった。
村民は迷惑そうにしながらも、止められないでいる。
身分差別が激しいこの国ではそれも仕方ないように思えた。
その一部始終を見ていた椿は、月下を伴い店内に足を踏み入れた。
「簡単に殺せる、か。なら、試してみるか?」
抑揚の無い静かな声に、店内に静寂が落ちる。
背中に太刀を携えた突然の乱入者に、店員を始めとする様々な客達は、眼を見開いたまま事の流れを見守った。
「あぁ!?何だ、貴様は!?」
酒を飲んで血気盛んな役人の男達は、そんな店内の雰囲気に気付くことなく、耳障りなダミ声を発する。
「人に物を尋ねる時は、それなりの態度ってもんがあるだろ?教わらなかったかい?役人様?」
凄絶な殺気を放ちながら口元に三日月を描く椿に、客達は我先にと店を出ていった。
残った数名は、逃げる訳にはいかない店員と 、突如現れた女性と役人との対峙に興味を持った物好きだけだ。
「おい、女。あんま調子に乗ってっと……、痛い目見んぜ!!」
恰幅の良い男が拳を振り上げた瞬間、女性の傷つく姿を想像したのか、さすがに物好きな客も眼を反らした。
若い女性の店員達は一層青ざめ、奥から出てきた男性の店員も、一瞬にして顔色を悪くした。
「お前、この程度で殺せるとかほざいていたのか?」
椿が平然としているのを見ると、店内の人間は驚いたように眼を開き、次いで僅かに笑みを溢した。
騒ぎを聞き付けた村民も、店の入り口でざわざわと騒ぎ始める。
状況を理解できていないのは、当人である男達だけ。
恰幅の良い男の拳は、見事に椿の片手で受け止められたのだ。
男よりも遥かに細く柔らかな腕が、岩のような拳をいとも簡単に止めて見せた。
衝撃が走る店内。
次いで起こるわずかな笑い。
その二つで、男は状況を理解した。
簡単に殺せるとか、痛い目見るとか豪語していた男は、自分よりも小さく頼りなさげな女に負けたような気がして、ひどく自尊心を傷つけられた。
「んの野郎ぉぉ!!」
そんな訳で男達は、とうとう腰に穿いていた剣を抜いた。
標的は椿の背後にいる月下。
椿よりも弱そうな外見が、その理由だ。
それを見て取った椿は、不愉快そうに眉を寄せたが、その後ろの月下は優しく微笑むだけだ。
男に剣を向けられ標的にされているのに、平然と笑っていられると言う時点で普通とは違う。
そんなことにも気付かない役人達は、剣を降り下ろした。
今度こそまずいと思った店内の人間達は、止めようと足を動かす。
勿論、そんな必要はなかった。
何故なら、月下が少しだけ場所をずれて、少しだけ男に足を引っかけたから。
それにより見事に前転した男は、勢いよく入り口まで転がった。
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