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眠れぬ夜は息を殺して上
※閲覧注意です。





――嘘も百回言えば真実となる

これは時代が生んだ格言だ。狂言めいて聞こえるかもしれないけど意外と正しい。だって人間は小さいころから、常識や道徳なんかを繰り返し繰り返し刷り込まれてきているじゃないか。感情まで支配する洗脳。思い込みと自己暗示。

そう、要するに生きていく上で肝心なのは――



****



「ちー、オレのこと好き?」
「うん!」
「ちゃんと言って」
「好きだよ。大好き」

部屋のベッドに2人で寝転ぶ。シングルベッドなので、寝返りを打つ度にベッドからずり落ちそうになるけど関係ない。僕は行為そのものよりも行為の後にこうやって、猫みたいにじゃれ合う時間が好きだ。夏生の、優しげでとろけそうな瞳に見つめられて、つい顔が綻ぶ。彼の体から溢れ出した愛情がこっちに流れ込んでくるようだ

「ちーはオレだけのものだね」
「うんずっと夏生だけのものだよ」

少し照れてしまいなんとなく寝返りを打ってベッドからずり落ちそうになる僕の体を、夏生が力強い腕で引き寄せた。耳元で夏生が「ちーあぶないよ」とクスリと笑った。くすぐったくて僕も笑う。僕が夏生の部屋に住み始めて一体どれぐらい経つだろうか。この部屋には時計が無い。だから僕がここに住み初めてどれくらいの日数が経ったのも曖昧になってきてる。時計が無くて夏生は困らないのかなって不思議に思う時もあるけど、夏生は携帯持ってるし、僕には夏生がいればそれでいいから全く気にならない。

「今日はなんだか寒いね」
「だって雨が降ってるもん。ちー、みて」

夏生が体制を変えて、頭の上のカーテンに腕を伸ばす。捲られたカーテンの隙間から、水滴がガラスの上に垂れては落ちて窓ガラスに跡を残すのがわかった。ベッドサイドのテーブルには、偏食がちな僕のために夏生が買ってきたサプリメントがあって、昨日飲んだサプリメントの殻がそのまま放置されている。いつも放置してしまうんだよなあ、あとで片付けないと。耳元で雨音がする中ぼんやり考える。

「そういえばこんな日だったね、ちーに会ったのは」

夏生がまた僕の体を引き寄せて、額に優しい口づけをくれた。ぼやけかけた記憶をもう一度確かめるかのように、夏生の腕の中で僕はあの日を回顧する。





大学からの帰路の途中、ぬるい雫が僕の首根っこ辺りをとろりと滑り落ちた。最悪だ、今日は雨傘を持ってない。徐々に歩くスピードを速めるが、雨の降る勢いは増すばかりで、やむを得ず僕は走り出した。大学から徒歩3分という好条件の家が、ひどく遠く感じる。水たまりを蹴るたびに靴中やズボンの裾がじわじわと水分に浸食されていくのがわかる。

アパートの階段が100メートル先くらいに見えてきた。とどめだといわんばかりに雨は更に激しく地面を叩く。俯きぎみに僕は走った。階段を上がれば簡素だが屋根があるのでひとまず安心だ。カンカンカンと音をたてて鉄の階段を駆け上がる。古いアパートだ、鉄の錆びたような匂いが、雨のせいだろう今日は一段と鼻につく。びしょ濡れだが寒さは感じず、むしろ気怠げな、不快なぬるさに僕は顔をしかめた。…一刻も早くシャワーを浴びたい

と、自分の部屋の前に立ちポケットの鍵を取り出そうとしたときだ。隣の部屋のドアが開くところに丁度出くわしたらしく、誰かが外に出てきた。開いたドアの磨りガラス越しに人の姿が映る。近所付き合いは大の苦手なので早く中に入ろうとしたが、「あの」と声を掛けられた。…こうなったら無視するわけにもいかない。只でさえ体が濡れて気持ち悪いのにと地団駄を踏みながらも、渋々ドアの外に顔を向けた。

そこには、色白というよりむしろ不健康にも見える程に肌の白い男が立っていた。薄幸の美青年を絵に描いた感じだろうか。耳にかかる程度の長さの黒髪によく映える黒曜石のような瞳は吸い込まれそうだ。体格はひょろ長く、黒のタートルネックから覗く細い腕は、敏捷性に優れてそうな筋肉の付き方をしている。不躾なこちらの視線にも穏やかな微笑みを崩さない態度は好意的で、警戒心が少しだけ緩みかけた。しかし相手は微笑むばかりで一向に喋らない。…声掛けといてなんだよ、と段々苛々してきた

「…もしかしてこっちに越してこられたんですか」
「ええまあ」

…おかげでこっちが会話の主導権を握るはめになったじゃないか。くそ、面倒臭い。階段から歩いて突き当たりの部屋が僕の部屋で、隣には…確か若いOLさんが住んでいたはずだ。そうかいつの間にか引っ越したんだな。初めて知った。まあ近所付き合いを極力避けてきた僕には本当にどうでもいいことだ。

「あ、じゃあこれからよろしくお願いします。じゃ」

よろしくするつもりなんか更々ないけれど。

「名前は?」
「え?」
「君の、名前」

外見を裏切らない滑らかな声が、繰り返す。なんだろう微妙に会話が成り立ってない気がする。子供と話してるような、不思議な。つーか…表札見ればいいのに

「あー、矢武です」
「下の名前」
「…矢武…ちさとですけど」
「ちさとくん。オレは川田夏生っていうんだ。よろしく」

川田夏生はさっきよりもより微笑みの色を濃くした。その笑顔に少し見とれてしまって、なんとなくばつが悪い僕は、軽く頭を下げて中に入る。玄関で一息ついて、振り返ると、磨り硝子越しにまだ川田の影が見えた。僕の部屋の前でまだ微笑んでるのかと思ったら正直薄気味悪い。なんとなくだが嫌な予感がした、コイツとは関わらないようにしようと胸に固く誓った。


筈だったけど。

「あのときのちーの嫌そうな顔まだ覚えてる」
「や、やめろよばか夏生」

こんな風にいつの間にか好き合うようになって、いつの間にか同棲まがいのことをするようになった。今では僕の部屋に夏生が住み着いて、隣の夏生の部屋は物置として使ってるらしい。まぁ随分前から僕はこの部屋から外へ出てないから詳しくは知らない。随分前っていつからと聞かれてもわからない。今は大学も通ってない。携帯もどっかに無くした。いくら何でもこだわらなすぎだろうか…否どうでもいいんだ。

「僕には夏生がいればいい」
「うん、オレもちーがいれば何にもいらないよ何にも」

夏生が僕の頬を撫でる。行為後だからか、ひどく眠い。眠りに堕ちる前に夏生が何か耳元で呟いた気がしたけど、まどろみに溶けた。幸せな夢をみた。

次の日目覚めたら隣に夏生が居なかった。寝ぼけた頭で見渡せばオレンジ色がベランダのまわりを染めている。ああ、もう夕方か、寝付きがいいのも困りものだ。時折あいつはふらりと居なくなる。…家賃も電気・水道代も、食費だって夏生が払ってくれてるのだ、多分バイトだろうか。「ちーはオレのこと信用してないの?」とか言われそうだから詳しく聞いたことは無いけど、暗黙のルールってやつだ。それに外から帰ってきたあいつはひどく疲れた顔をしているから、僕だって少しは気を遣う。寂しいけどちゃんとお利口にしてたら夏生は必ず帰ってくる。だから我が儘言わないんだ。
そうは言ってもあいつがいないとなったら、無趣味な僕は何もすることがない。暇なので、普段夏生と一緒にいるときには点けないテレビの主電源を入れる。
政治家の汚職事件に、株価の暴落を嘆く社長、連続通り魔事件にだめ押しで芸能人の不倫疑惑。垂れ流されるゴシップ…キャスター達の無意味な感情の揺れや干涸びた笑い声が虚しい。いつ見ても同じようなことしか、この無機質な箱は伝えない。人々の興味はいつもとても低俗で下品で、残酷だ。飽き症の夏生がテレビを好きじゃない理由はきっとそれなんだろう。全く同感だ。

余りにつまらなくて半時間もしない内に、またテレビの主電源を落とした。またもや部屋が静かになる。ごろんと横になって「夏生」と呟いても、冷たいフローリングに淋しく返されるだけだ。寝そべったまま顔を上げると、テレビの上に伏せられたままの写真立てが目に入る。起こして上げようと四つん這いになり写真立てに手を伸ばしたが、きりきりと頭が痛くなって、伸ばしかけた手を引っ込める。
ここ最近偏頭痛がひどいんだよなー…そうだ、今日は久しぶりに外に出てみようか。外に出ようとすると夏生がしつこいし機嫌悪くなるから今がチャンスなのかも。たまには日光浴しないと体にも悪いもんなー、そうだ、近くにケーキ屋があった筈だ、そこでケーキでも買って夏生をびっくりさせてやろう。晩ご飯のあとにだしたら、あいつどんな顔するかな?そう思うと急に気分が高揚してきて飛び起きた。あまり多くはない僕の私服の上に、ハンガーに掛けてあった夏生の上着を合わせ、僕には些か長すぎる袖をまくりながらいそいそと玄関へ向かう。

「いってきます」誰も居ない部屋に向かって言って、ひと呼吸置いてから、玄関のドアを開ける。うす暗い部屋の中から急に外に出たから日差しが妙に眩しい。いつか植物みたいになっちゃいそうだなと苦笑すると、その直後に僕はあることに気付いた。

「…くさい!」

この部屋の隣、以前夏生が住んでたの部屋から、異臭がする。夏生さん、またやらかしましたな…。

あいつは几帳面に見えて意外と無頓着なところがある。また生ゴミとかをそのまま放置してるんだろう。ゴミは定期的に捨てろって言ってんのにあいつめ。
今二人で住んでる僕の部屋も放っておくとあっという間にゴミで溢れ返る。冷蔵庫から賞味期間を7ヶ月過ぎた納豆が出てきたときはさすがの僕も泣いた。あのときの夏生の焦りようったら、なんかわいかったな。いけない何思い出してるんだと我に返る。仕方ないので片付けてやるかまったく。

意を決して、夏生の部屋のドアノブを握る。…鍵開いてるし。少しドアを引くと、途端に臭いは強さを増した。目がまわりそうにな程の臭いに卒倒しそうになりながらも、僕は夏生の部屋へ足を踏み入れた。


****


そういえば夏生の部屋に入るのは初めてだっけ、と思いながら玄関のドアを開ける。意外と部屋の中は綺麗だった。キッチンも片付けてあるし冷蔵庫の中身も空っぽだ。ゴミ袋は2、3個床に置いてはあるが、これはゴミ出し前だから仕方ない。臭いにもほんの少しだが慣れてきたので、冷静に鼻を効かせてみる。どうやら奥の部屋から臭いがしているようだ。最初の目的を忘れかけ軽い探検気分で、奥の部屋のドアに近づこうとして足を踏み出したとき、廊下の隅に置いてあるゴミ箱に目がいった。

「え、なん、で」

見覚えのあるその形と色で、以前僕が使ってた携帯電話だということに気付く。しかし真っ二つに折られたそれは、もう電話として機能はしないのだろう。なんで、今まで忘れてたんだろう。頭の奥の方で、何かが「コトリ」と音を立てた。頭が割れるように痛い。なんなんだこの現実のような夢のような曖昧で混濁した感覚は。全身がぶわりと浮いて気持ち悪い既視感を感覚えた。頭が割れるように痛い。僕はふらつく足で誘われるように奥の部屋のドアに近づいて行く。取手を下に下げて部屋をあけるタイプのドアノブを震える手でゆっくりと握る。誰かが警告している。うるさいくらいの金切り声で。あけちゃいけない、あけちゃダメだ、あけちゃ



「ちー、なにしてるの?」


手の震えが止まった。ゆっくりと振り返ると、いつからいたのか、玄関に夏生が腕組みをして立っていた。

「な、つお…」

「ね、なにしようとしてたの?」

「あの、へやを…」

「言えないこと?」

「ち、違う!夏生…いなくて、外にでようって、部屋片付けようって、それで、臭いが、でも、痛くて頭…痛くて」

夏生が感情の読めない顔でゆらりと近づいて来る。おこられる。いやだ、ごめん夏生、ごめんなさいもうしないからおねがいだから、ーーーーーで

ドアノブを握っていた手を握られた。有無を言わさない力ではがされる。怖くて夏生が見れなくて、俯いたまま
「ごめんなさい」と謝る。しばらくして、「ちー、こっちみて」と頭上から言葉が降ってきた。恐る恐る顔を上げる。夏生が緊張を解くように頬に力を入れて微笑み、僕の目の下を指でそっとぬぐうと、優しく僕を抱擁した。全身の力が抜ける

「すごく…しんぱいしたんだ、家かえってきたら、ちー、いないし、誰かに攫われちゃったのかと思って、しぬほど…しんぱいしたんだ。だからもうこんなことしないで、もう二度とここに入らないって約束して」

「ん…ごめん。もうぜったいしない」

「めのまえからいなくならないで」

小刻みに震えているのは、いつの間にか僕じゃなくて夏生のほうだった。僕は心細くってなんだか泣きそうになってしまって、夏生を力いっぱい抱きしめた。

「…んー」
「あっ、ごめん夏生苦しかっただろ」
慌てて身を離し、夏生を見上げようとすると、自分の表情を見られるのを防ぐかのようにまた抱きしめられて彼の腕の中に戻った。泣いてるのか笑ってるのかへんに間延びした声で夏生は言う

「…ないのかなー」
「ん?」
「へへ。ちー、そうだ夜になったらお散歩いこっか。最近、出てなかったもんね。外」

僕の返事も聞かないで体を離した夏生は踵を返して玄関に向かう。ていうか靴はいたまま上がってたのか夏生。取り残されていまだ間抜けな顔をしている僕の方を振り向くと、その上着やっぱりちーには大きすぎて似合わないね、かわいいけど。と言って夏生は笑った。


ずっといっしょにいられないのかなって言ったの聞こえた。けど、そのときおれは、聞かなかったふりをした。聞かなかったふりをしたんだ。


あきゅろす。
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