急がば回れ(1)
まず入ってすぐの照明をつける。中と外の掃き掃除を終えたら、伏せてあるグラスと猪口を洗って水気が残らないように拭く。それからテーブルと椅子を固く絞った濡れふきんで拭いて、のれんを机の上に広げる。水を入れたやかんをコンロの上に置いたあと、よく出る酒を氷水の中に入れておく。
開店前にするのは、だいたいこのくらいだ。お金関係は全部お登勢さんがするから私は関わらない。もし私が下手に触って過不足を出しても申し訳ないので、やらなくていいと言われたときは正直安心した。
椅子を軽く引き出して、腰を下ろす。お登勢さんは私に開店準備をさせるようになってから、少しゆっくり来るようになった。という言い方をするとまるで私がここに勤めて長いようにとられそうだが、実際一週間しか経っていない。
働き始めてから、何度か中心街に赴いては求人情報誌の収集と電話をしたけれど、色よい返事は得られなかった。世の中が皆、お登勢さんのような人たちなわけではない。当然ながら、履歴書は求められるし、身分証明は必要だしと、今の私には到底準備のできないものばかりを求められる。
それが普通だ。今こうして、私を雇ってくれているお登勢さんこそが、言い方はアレだがおかしいのだ。別に私は腹の内に何かを抱えていたりだとか、将来彼女を裏切って何かを成そうだとか、経営を乗っ取ろうだとか、そういうことは考えていない。けれど、世の中にはそういうことを考えている人もいる。雇うにあたって必要最低限の安心と保証を得てもらうために、雇われる側は自分を売り込むのだ。
「……ねむ」
小さくつぶやいて、瞼を軽く押さえた。毎晩の寝床は、店の床だ。お登勢さんが自分の家に来ればいいと言ってくれたけれど、さすがにそこまでお世話になるのは申し訳ないので断った。もし本当にお登勢さんが心から、私を家にあげてもいいと思っていても、やはり他人が自分のテリトリーに入ってくると気疲れする。いくら平気と思っている人でも、気づけばなにかしら負担になっている。それを考えると、到底お邪魔する気にはなれなかった。
代わりに店の床にダンボールを敷いて、新聞紙をかぶって寝ている。頑丈な屋根がある分ホームレスのおっちゃんたちよりは気が楽かもしれない。そう言えばあのおっちゃんたちはどうやって日々を生きているのだろう。あの人たちから私が学ぶことは多そうな気がする。
そんなわけで、お世辞にも寝心地の良いとは言えないところで毎晩寝ているものだから妙に寝た気がせずに体がだるい。軽く伸びをして、体を纏う何かを飛ばす。
「なんだい、早いね」
「あ、おはようございます」
綺麗に着物を着つけたお登勢さんが入ってきた。立ち上がり、頭を下げる。お登勢さんは手で私に座るよう示すと、するする目線を上下左右に動かしながら店内をチェックし始めた。初日と二日目はここがだめ、あれがだめと細かなダメ出しを食らったが、三日目あたりからはほとんどない。今回もこれといって問題のある箇所はなかったらしく、無言のままお登勢さんが椅子に腰を下ろした。
きつく縛った腰紐が苦しい。お登勢さんからお借りした着物はすっかり私に馴染んで、違和感なくここにある。いつか洋服に袖を通す日が戻ってきたら、きっとすごい開放感なんだろうな、と思いながら時計を見上げた。
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