(For you)
それは、千切りです。お願いしたのは、たんざく切りです。
そう言った私に、口に入るんなら形なんてどうでもいい、と彼は言った。それは、彼だけの口に入るならば問題はないけれど、私や、寮のみんなの口に入るものだから、そういうわけにはいきませんと言い返した覚えがある。
たんざく切りという言葉を知っていただけで、彼からの私の認識は「料理上手」になってしまって、参った。できないことはなかったし、料理をするのも嫌いではなかったけれど、決して上手とも言えないので困っていた。風花ちゃんに料理を教えてくれと頼まれたときだって、四苦八苦したのに。
今、目の前にあるまな板と、包丁を見比べる。ずいぶんと使っていなかったのに、どちらも綺麗だ。錆びもなければ、黴もない。これを用意してくれたのが、あの先輩だったことを思い出す。彼女のことだ、きっと、いいモノを用意してくださったんだろう。
「皮むきと、ざく切り」
じゃがいも、キャベツを指差しながら、なんとはなしにつぶやいてみる。本当は、できるだけ料理もしたくなかった。本当に、酸素を吸って、栄養素を体のどこかから入れてもらって、あとはひたすら何も考えないでぼうっとしていたかった。
食材に、包丁を入れる。まな板と包丁を持って、ぼうっとしていた彼を思い出す。ひ、と喉の奥が引きつって、息が苦しくなる。だめだ、いまは、まじめに料理。そう思いながら、包丁を進ませる。
たまねぎがあるわけでもないのに、涙はぽろぽろと落ちた。指先が、迷いなく包丁を扱う。刃先が、迷いなく皮をむいていく。
『順平のより、俺のを少しだけ多めにして』
なんでですか、と問いかけた私に、ちょっとでも多く食べたいから、と彼は言った。
こんな私の、さしてうまくもない料理を、彼は喜んで食べていた。
『また今度、作って』
はい、作ります、何度だって。
あなたが欲しがってくれるのならば、何度だって。
風花ちゃんに教えながら、自分も少しずつ勉強していたの、知られたくなかったからずっと隠していたんです。
料理の腕、少しは上がったんですよ。
あなたが好きなものを、覚えたんです。
あなたが好きなものを、作れるようになったんです。
今度、お弁当も、作ります。
欲張らないから、皆と一緒でいいから、どこかへ出かけましょう。
あなたのために作るから、好きなだけ食べてください。
言いたい言葉が、浮かんでは、沈んで行った。
『苗字』
「……いっ」
じんわりとにじんだ視界に、赤色が広がる。さほど深くはないが、少しだけ切ってしまったらしい。
痛みは不思議と感じないので、ただ血が広がっていくのを、見ていた。それから少ししてはっとして、急いで水で洗い流す。使わないまま放っておいて、だいぶ古くなってしまった絆創膏を指先に巻いて、再びまな板の前へと戻った。
「…………」
彼の声が、耳の中に残るよう。奥の奥で、ずっと呼ばれているような。
「あ……」
中途半端に剥かれたじゃがいもの端に、ほんのり血がこびりついている。水で流せば、そんなものは流れると頭ではわかっていた。けれど、その赤い部分が、今にも広がってすべてを侵食してしまいそうで気持ち悪くて、刃先でそこを取り除き、除いた部分は捨て置いた。
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