His world
七階に上がったところで、クマが異様な熱気がする、と言った。何かがある階では必ずクマが反応するから、一応身構える。一階上がると彼女の気配が上に上がって、さらに上がるとまた彼女が、という奇妙なことを繰り返し、ようやく七階で気配に追いついた。
『なんか……止まったっぽいクマ。んむむむ?』
「どうした?」
額の汗を拭いながら花村が問いかける。完二の影も完二の声も何度か聞こえて、その度に花村が動揺していたのが少し面白い。面白がっている場合じゃないが。
『さっきまで、たくさんのシャドウがいたけど……消えたクマ』
「消えた?」
『んー、わかんないクマね……でも、入り込んだ子は無事みたい。あと、さっきチエちゃんとユキちゃんが来たクマよ。今、上がってきてるクマ』
よくわからないが、無事ならそれで良い。おまけに増援とは、これ以上ないくらいに頼もしい。ほっと胸をなでおろし、深呼吸する。暑苦しい息で肺が苦しい。
廊下を進むと、いつもはいるはずのシャドウが消えていた。彼女が進んだと思しき、扉があちこち開いた廊下。何かがあったとは考えられるが、その形跡は見当たらない。血液らしきものは落ちていなかったから、少なくとも派手な怪我はしていないだろう。
突き当りに、一つだけ閉まっている扉があった。扉の向こうからはこの階に上がったときよりも激しい、異常な熱気が漂ってくる。
『そこー!そこよ!扉の向こうに何かいるクマよ!』
「……わかった」
意を決して扉を開ける。
入ってすぐに見たものが、目の前にいたシャドウが彼女に腕を振り下ろすところだった。
「ッ、危ない!」
猫のように彼女の襟首をひっ掴み、後ろに倒す。シャドウの拳が床に叩きつけられ、彼女の足のすぐ近くが陥没した。
てっきり怯えて、泣いていると思った彼女の顔は思った以上に穏やかで、またぼうっとしている。唖然としすぎているのだろうかと声をかけたら、ゆっくりこちらを向いた。
「あ……」
ぱち、ぱち、とゆるい瞬きが二回ほど。それからゆっくりと、ありがとうございます、とつぶやく。こんな状況にあって、なんでこんなゆっくりしていられるのか。もしかするとこの人は相当にマイペースなのかもしれない。
それからゆっくり、眠るように彼女が瞼を伏せた。体を軽く揺すっても、瞼が開く気配がない。予兆がなさすぎて驚いたが、どうも気を失っているらしい。
「おい、あれ……」
花村の声に顔を上げると、大きなシャドウの横に完二の影が立っている。尻を隠そうにも今は片手に武器、もう片手に彼女でちょっと無理だ。その代わり、彼女を引っ張って後ろに下がる。
肩にかけていた鞄を下ろし、彼女の横に置いた。とにかく熱気がすごくて、息苦しい。
「ようこそ、男の世界へ!」
完二の影が嬉しそうに声を上げた。花村が引きつった笑みを浮かべつつ両手で尻を隠す。
「いいところに来てくれたねぇ。この女の乱入で会場がしらけるところだったよ……」
「か、会場ってなんだよ会場って」
「ナイスなボーイが二人も乱入!んっふ、盛り上がってまいりましたねえ〜」
花村のツッコミも無視し、完二の影が足を左右交互に動かす。どちらかと言うと俺や花村は激しく盛り下がっているが、それを言ったところで流されるのは目に分かっていた。
無制限でなんたらかんたら、熱き血潮をうんたらかんたら、と喋る言葉が右から左へ抜けていく。
完二の影の横にいるシャドウは、力を振るのが楽しみで仕方がないのか延々と腕を振り回し、それに煽られた熱風がこちらに来た。蒸し暑い。
「……花村」
「ああ。やるぞ!」
このまま逃げ切れるとは思わない。彼女を壁の近くに横たえて、シャドウへと向かって行った。
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