本編 * ゆうって。 いつまでゆうって、呼んでたんだっけ。 「おはよう。ねぇゆうは?」 「おはよう。早くにね、お友達が迎えにきて遊びに行ったよ」 「えっ」 なにそれ。なんで?聞いてない。 つっ立っていたら、母さんが顔を上げてちょっとだけ笑った。 「そんな顔しないの。ほら、ご飯できてるから顔洗ってきなさい」 母さんに言われるまま、のろのろ洗面所に向かう。 そんな顔ってどんな顔だろうと思ったけど、かがみを見てもよくわかんなかった。 朝ごはんを食べて、そのままなんとなくテレビを見る。道場に行こうかなと思ったけど、今は大人の人たちのけいこの時間だ。父さんもきっと相手にしてくれない。 ぼんやりテレビを見続けて、のろのろ宿題をやり始める。包丁の音と、フライパンの音が聞こえる。時計を見たらもうすぐ十二時だった。ご飯、何だろう。……ゆう、いつ帰ってくるんだろう。 「今日はあったかいね」 母さんが小さく言った時、げんかんのドアが開く音がした。 それから、ただいまー、とのんびりした声。 イスから飛び降りた。 リビングのドアを開けて飛び出したら、くつをぬいでいたかっこうでゆうが目をまん丸くしていた。 「一歩?どした?ただいま」 「……おかえり」 「うん。ただいま」 笑ったゆうはくつをぬいで歩いてくる。赤色のマフラーをくるくる取って、そのままおれの頭をなでた。顔にふわりとマフラーがあたって、ちょっとだけゆうの匂いがした。 リビングへ入っていくゆうにあわててついていく。 「おかえり勇歩。早かったね」 「うん。矢口くん家もご飯になったから」 「そう。一歩がぶすくれてたよ」 「え?なんで?」 くるっと振り向いたゆうにあわてる。母さんも言わなくていいのに。 「……けいこって言ったのに、いなかったから。もう今日はしないのかな、って」 ぼそぼそ小さく言ったら、ゆうは「なんだ」と笑った。 「一歩まだ寝てたし、起こすのかわいそうかなって。起こせばよかった?」 「ううん……もういいから」 「そ?お昼からけいこしような」 ゆうの笑った顔を見てたら、なんであんなもやもやしてたのかわかんなくなった。ちゃんと帰ってきてくれたんなら、もういいや。 もうすぐご飯だからね、と母さんが言う。ゆうがパッと母さんの方を見て、「じゃあ父さん呼んでくる」とうれしそうな声を出した。 「もうけいこ終わってるよね?」 「そうね……じゃあ行ってきてくれる?」 「うん。行ってくる」 ゆうがおれを見て、もう一度笑った。 それからくるりと背中を向けて、早足でドアに向かう。 ───いやだ。 ぱっと浮かんだ言葉に驚いた。 びっくりして体が動かない。心臓がどくどくいいはじめる。なに、なにこれ。 その間に、ゆうがドアを開ける。背中が見えなくなる。 いやだ。ゆう。 行かないで。 我慢できずに走り出そうとした。 でもがくんと腕を引かれて体が引き戻される。ひゅっと息が止まった。 「だめ。一歩はここにいなさい」 静かな母さんの声。 強い力で腕を掴まれてゾッとした。 振り払おうと母さんの腕を掴む。物凄い力で全然動かない。がちゃん、と玄関のドアが開く音。だめだ。怖い。いやだ。 「っ、やだ、なんで!ゆう!」 「一歩、やめなさい」 「やだやだ!離せ!ゆうがっ、ゆうが行っちゃう!」 「大丈夫。勇歩は帰ってくるから」 「嘘だ!ゆうはっ、……兄貴は!」 ───帰ってこなかったじゃないか。 びくっと体が震えた。 どくどく心臓が鳴っていて、息が苦しい。 真っ暗だ。何も見えない。訳がわからないまま体を動かそうとして、密着する暖かさに気付いてぎくりとする。 真っ暗な中で感じる体温と、息遣い。 あ。 「……あにき」 兄貴。そうだ。会えた。会えたんだった。 兄貴だ。 無意識に動いて、ぼんやり見える体に縋り付く。 俺の胸に顔を寄せる兄貴。ゆっくり、そっと、震える手を伸ばす。髪に手を当ててから、兄貴を覆うように体を丸めた。触れる体。あったかい。筋張った腕、骨の形がわかる脇腹。 きつく目を閉じる。 ───夢じゃなかった。 たった二年。すごく早かった。 でも、一日一日は恐ろしいほど長く感じたこの二年。 兄貴が消えてしばらくは寝れなかった。食欲も消えた。怖くて怖くて、泣き叫んだ。 やつれていく父さんと母さんに、泣きながら謝った。……神様にも、心の中で叫び続けた。 俺が消えろなんて言ったから、兄貴は消えたんだ。ごめんなさい。謝るから、もうあんなこと絶対言わないから。なんでもいい。神様がいるなら、お願いだから。頼む。兄貴を返してくれ。 そんなことをずっと思って、でも兄貴の行方は全然わかんなくて。 兄貴のことを忘れたくなくて、毎日竹刀を握った、この二年。 ───うん、もしかしたらいるのかもね。 うっすら笑った兄貴を思い出す。は、と薄く息を吐いた。 会えたのは、嬉しい。生きてた。元気にちゃんと暮らしてた。 ……本当に神様がいるんなら、感謝する。たとえ、兄貴をこっちに連れてきたんだとしても。 だって、また会わせてくれた。 「……二度と、会えないと思ってたんだよ」 なぁ、と小さく問いかける。もちろん返事はなくて、小さな寝息しか聞こえない。寂しくなって、兄貴の髪に顔を埋めた。 夢の中で行ってしまった小さな背中を思い出す。止められなかった。……俺が、弱かったから。 いやだ。 「あにき」 なぁ。なぁ兄貴。兄貴は、ちゃんと俺の兄貴で、勇歩って名前で。 アズマとか呼ぶ奴にも、普通にそう呼ばれる兄貴にも腹が立ったけど。 でも、いい。 ここがどこでも関係ない。どうでもいい。 剣道をしてなくても、名前が違っても、変な奴ら に懐かれてても、知らない顔をしても、なんでもいい。 兄貴がいるなら。 これからずっと一緒にいれるなら、なんだって、いい。 あんな気持ち、もうたくさんだ。 ひとつ、ゆっくりと深呼吸をした。震えはもう止まっていた。そっと兄貴の髪を撫でて、力を込めすぎないようにまた腕を回す。 静かな寝息に、ゆるゆると胸のあたりがいっぱいになっていく。 ゆう。 兄貴。 兄貴。 神様。 いるなら、どうか。 どうか、もう、兄貴をとらないで。 第四章・了 [*前へ] [戻る] |