狼と忠犬
天国から地獄
―――目が覚めたら、古臭い壁にしゃがみ込んでいた。
「チカ?」と隣で同じように膝を抱えて座る少年が、心配そうに俺を顔を覗く。利発そうな力強い目と小さな身体……そう、これは初めて出会った頃の『ヒカゲ』さまだ。
なんでもない。
そう言葉を発しようとしてゆっくりと瞬きした。
瞬間、薄暗かった事務所はたちどころにその景色を変え、陽の光が畳の隅にまであたる美しい和室になる。
「友近。」
声変わり直前の、少しかすれた懐かしい声。目の前に立っているのは、瓜生家で一緒に暮らしていた頃の日影さまだ。
「ほら、今日はやっぱお前の好きなイチゴショートだった。」
どこか嬉しげに盆に、載った二つの皿をこちらに向ける。
日影さま、それは残念ながらイチゴショートではなく苺のタルトです。しかもなぜ貴方が運んで来られたんでしょうか……これは後で俺がきつく叱られるパターンだった気がする。
「タルト?別にどっちでも食えば一緒だろ?こっちのが上に乗ってる苺多いじゃん。」
あれ?俺の心の声は返事になっていたんだろうか。日影さまの眉が不快そうにほんの少し吊り上がり、ちゃぶ台にガシャンと音をたてて盆が置かれた。
これはマズイ。不機嫌になった日影さまから苺が貰えないとかそうういった事では無くて、この状況になった日影さまの曲がったへそは戻り難い。
すみませんでした―――と「す」の形に唇を動かした途端に、全ての景色が天井から流れるように変化していく。
次に現れたのは成長した日影さま、ではなく、中等部時代の日影さまの写真をこっそり見せて下さる早苗さまだった。
「本当は駄目なんだけどね。時々はご褒美が無くちゃ頑張れないだろ?」
影武者として生活する俺の存在を確かなものとする為に、早苗さまは時々中学校にやって来ては俺を連れ出した。大抵はセキュリティの確かな店でお茶を飲む程度だったけれど、思いついたように日影さまの写真を見せてくれた。
早苗さまの手にする携帯には、小洒落たテーブルでご機嫌そうに微笑む彼とは対照的にこちらを睨みつける日影さまがいた。銀色に染めた髪が、日影さまの整った容姿を更に鋭くみせている。
欲しい。
「いや、駄目だろ。携帯盗まれたりしたらどうするんだよ。」
そ、そうか……やはり本物の写真なんて保存していたら、万が一見られた時に俺では対処が出来ない。今、瓜生日影は俺だけど、些細な綻びが破滅につながると近衛さんが言っていた。
「……悪いな。そのかわり、またこうして新しい写真見せてあげるから。」
「そう言えば最近アイツ銀髪になったんだぞ?写真見てみるか?」と早苗さまが言った瞬間の、俺の食いつきぶりが凄まじかったらしい。それ以来、何度か携帯越しに日影さまを拝見する事が可能になった。あの頃の俺の、一番大切だった時間。
―――なんとなく、そろそろかな、と思ったら四方が黒い壁に覆われた。
蒸し暑い。
ぐわん、ぐわんと骨董品みたいな換気扇がまわる。
おいおい……折角の日影さま祭りが、一瞬にしていつもの夢になるなんて。着ていたはずの制服は綺麗に消え去り、代わりのように完成間近の龍が腿をつたっていた。
硬いパイプベッドで丸くなり、きつく目を閉じる。
そうすれば、もう一度『戻れる』
はやく、はやくと逸る心臓の音が鼓膜を覆い、汚れたシーツに顔を埋めた。
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