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short
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* * *



「依月さん? それ、砂糖入れすぎじゃないっすか?」
「え? …うわっ」


講義が終わって、夕方からはバイトの時間。

今日も試作品のクッキー作りに励んでいた……筈なんだけれど、やっぱり思考は上の空で。

後ろから僕の手元を覗き込んだ恭祐君の指摘に、僕は慌てて砂糖の匙をボウルの上から逸らした。けれど、生地の中に入ってしまった砂糖は、既にかなりの量のようで。

軽くそのまま生地を混ぜ、おそるおそる指先で掬って生の生地をほんの少し舐める。


「……あ、駄目だ、これ」
「…ですよね」


生地の筈なのに、既にかなり甘い。これをこのまま焼いたら、それは酷い事になるだろう。

ため息を吐いた僕は、手にしていたゴムベラを置いた。


「…恭祐君、」
「大丈夫です、マスターには内緒にしとくんで」
「ありがとう」


気の利く後輩がそう言って笑ったので、僕も苦笑いを返してこっそりと失敗した生地を捨てた。勿体無いとは思うが、仕方がない。

また一つ深々とため息を吐いた僕に、恭祐君が首を傾げた。


「今日は入った時から様子がおかしいですけど……、何かあったんすか? マスターも、具合悪いなら早退してもいいって言ってましたけど」


その言葉に、ほんの微かに肩が震える。

何か、ならあった。……いや、そんなものは無かった。忘れる事にしたんだから。

沈黙した僕に、恭祐君は心配そうな顔で続けた。


「まぁ体調も良くはなさそうですけど、何かあって落ち込んでるカンジっすね」
「う…。い、いや、何でもないんだよ?」


何でもない。何でもないんだ。

自分に言い訳するようにその言葉を繰り返しても、恭祐君は引き下がらない。


「それが“何でもない”って人の反応っすか。…もー、今日の依月さんホント使いものにならないから、やっぱマスターに体調不良って言って帰った方がいいっすよ。店なら今日は暇そうだから、俺とマスターだけで何とかなりますし」
「うぅ……」


痛いくらいにハッキリ言ってくれる恭祐君に、僕は思わず口ごもった。

慣れたバイトも出来ないくらい動揺しているだなんて、情けない。ちっとも忘れられてないじゃないか。

そう、ちっとも忘れられていない。ふとした瞬間に、昨夜の熱が、声が、感触がフラッシュバックしてくる。


『依月……』


僕を呼ぶ親友の、聞き慣れた筈なのに全く温度が違う声。夢幻のようなそれなのに、それでも夢だと思って忘れてしまう事が出来ない。


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